第一話
見慣れない外国の風景が、通学バスの窓を流れていく。パリといえばお洒落な街並みを想像すると思うが、一歩郊外に出てしまうとそこは一面の緑だ。高速道路から見える景色は畑、森、時々一軒家。
また、パリは日の出の時間が東京と比べてかなり遅い。九月現在、七時を回ってやっと日の出を迎える。そのため朝起きた時、外はまだ真っ暗だった。
さすがにバスがしばらく走ると太陽が昇ってきたが、雲が多い気候であることも相まってバスの中は薄暗かった。これが十二月には学校に着いてもまだ日の出前だそうで、これから訪れる冬に対して思わず気が滅入ってしまう。
パリに着いて一週間、雨か曇りかという天気ばかりできれいな青空を見たのは東京からパリに向かう飛行機の中が最後だ。あの時も久々に乗る飛行機とそこから見る青空に最初は興奮していたけれど、十時間以上にもわたるフライトに参ってしまい、途中からはそれどころじゃなかった。
「はあ」
海外に過度な期待をしていたつもりはなかったけれど、こんな陰鬱とした天候続きじゃ幸先が悪いなあ、とため息が出てしまった。
「バス乗ってる時間暇だよな〜」
隣の席に座る男の子がもぞもぞと体をくねらせながら僕に話しかけてきた。
パリ日本人学校、通称パリニチはその名の通り、パリに存在する日本人の学校だった。児童は親の仕事の事情で半年から数年単位でパリに滞在する子がほとんどで、授業や行事内容は大体日本の学校と変わらないらしい。日本人の住居はパリの至る所に点在する都合上、児童の九割は学校と六地点を結ぶスクールバスのいずれかで通学していた。
僕と隣の彼、岩崎奏多は五号車に所属しており、このバスには小学二年生の児童は僕たち二人しかいないらしかった。
「……そうだね。岩崎くんはいつもバスの中で何してるの?」
「ひとりで遊べることとかをしてたなあ、あやとりとか。でも、今日からは一緒にしゃべる友達ができたし退屈しなさそうだよ」
岩崎くんは結構人懐っこい性格をしているように見えた。僕とはまるで正反対だったけれど、水と油ということもなくむしろウマが合いそうだなと感じた。
「じゃあ、学校のことを教えてよ」
「いいよ。まずはそうだな。担任の武田先生は……」
岩崎くんは話すことが好きなのか、立て板に水といった感じでいろんなことを話してくれた。週に三度フランス語の授業があることや、変人だけど面白いクラスメイトの青山くんのこと。年末は同級生の家に集まってパーティがあることなどなど。
岩崎くんはあんまり話すのが得意でない僕にも気さくに接してくれたし、僕が本を読むのが好きだという話をした時も特にからかったりしなかった。
気が付けばすっかり話し込んでしまった。いや、話し込んだというのは正確じゃない。大体岩崎くんがひとりでしゃべって、僕は相槌を打っていただけだ。
それでも彼は楽しそうだったし、僕も彼の会話のリズムに乗ることは楽しかった。
その後、岩崎君――奏多の提案で下の名前で呼び合うようになるまで、さほど時間はかからなかった。
「そうそう、昼休みずっと図書室に入り浸ってる子がいるよ。悠希も本好きなんだろ? 気が合うかも」
「ふーん」
自分で言うのもなんだけれど、本が好きなやつっていうのは大体内向的な人ばっかだ。なので本好き同士だからって気が合うかってあんまり当てにならないんだけど、岩崎くんはそういうタイプじゃないからまあわからないだろう。
「名前は……っともう着いちゃった」
停車の揺れに気付いて窓の外を見ると、白いアーチ状のオブジェが目に入り、その奥には一面ガラス張りのエントランスがあった。
「やっぱり話してると時間がすぐ過ぎるね」
「……うん」
僕はあまり話すのがうまいほうじゃないけれど、それでも彼との会話はストレスがなかった。しゃべるのが好きなだけじゃなくうまくもあるらしい。
バスを降りた後、僕はエントランスに迎えに来てくれた先生と一緒に職員室に向かった。そこで親の書いた書類を渡したりなど簡単な手続きをした後、自分の所属する教室に移動することになった。
先生に連れられるまま階段を上り、日本の小学校より少し広めな廊下を進んでいくと「三年一組」と書かれた教室の前で先生は立ち止った。
さっき先生から聞いた話によると、パリニチはそこまで児童数が多くないため、各学年一、二クラスしかないそうだ。
もう何度も繰り返してきた転校のあいさつを終えるとすぐに授業が始まった。パリニチ自体、頻繁に児童が転校してくる学校らしく、特に騒ぎが起きるようなこともなかった。
前に日本の小学校で転校したときは、同級生たちがわっと群がって来て質問攻めに合うことが多かったから安心する。大体そこで受け答えがうまくできなくて周囲をがっかりさせてしまっていたから。
席に着くと、たまたま隣の席になった奏多が小声で話しかけてきた。
「同じクラスだったな、これからよろしく悠希」
「よろしく、奏多」
昼休み、弁当を食べ終えた僕は前の学校でも日課にしていたように図書室へ向かった。
奏多を含めクラスメイトたちのほとんどは校庭に遊びに行ってしまったから案内も頼めず(そんな事情がなくても僕は頼めなかっただろうけれど)、十分くらい迷子になってしまった。
エントランス前に三回ほど出てきてしまったタイミングで、見るに見かねた先生が案内してくれたが目が回るくらい恥ずかしかった。
やっとの思いで到着した図書室に入るため、小学生が引くには少し重めの引き戸を開くと嗅ぎ慣れた紙の匂いが漂ってきた。この辺りは日本だろうが、フランスだろうが変わりないらしい。
一方で大きく異なるところもあった。
「眩しいな……」
パリニチの図書室は、僕が今までいた学校と違い窓際のカーテンがどれも大きく開け放たれていた。部屋の奥の方まで日が届いていて、薄暗い図書室が好きな僕からすると少し眩しい。
光に目をチカチカさせながら、僕は小説が集められている列を探した。
植物の本の列、地理の本の列、歴史の本の列、と通り過ぎたところで小説の列を見つけ――同時に、その本棚の前にいた女の子が目に入った。
ここで僕は人生で初めて、何かに見惚れるという経験をした。
彼女が綺麗だったから、というだけではない。
少しだけ僕より背の高い彼女は背筋をピンと張って、一心不乱に文庫本を読み耽っていた。僕には、その姿が小説に対してすごく誠実に見えたんだ。
彼女の口元にはずっと笑みが浮かんでいて、きっと今読んでいるシーンは楽しく、幸せで、踊り出しそうな場面なんだろうな、と容易に想像できた。
時折、ページをめくるタイミングで目線が大きく右に振れ、彼女のポニーテールが左右に揺れていた。
彼女を見つけてからどれくらい時間が経っただろうか。彼女の持つ小説の表紙がちらり、と目に入った。
アルセーヌ・ルパン 813の謎
「あっ」
自分の知るタイトルに思わず声が漏れる。
そして同時にしまった、と思う。
図書室というのはどこの学校でも静寂が保たれていて、それはここも例外ではなかった。
そんなところで声を漏らしてしまえば、当然近い距離にいる彼女は僕の存在に気づくはずで。
彼女の目線がこちらに向き、ぴょこんとポニーテールが振れた。
「あ、えっと……邪魔してごめん」
第一声がこんな情けない言葉しか出なかったあたり、我ながら自分のコミュニケーション能力の低さに呆れる。
しかし彼女はそんな僕を気にした様子もなく、ジーッとこちらをたっぷり十秒は見つめた後、腑に落ちたかのように目を大きく開いた。
「……あ、君! 転校生でしょ!」
「え、ああ……うん……」
「君も本好きなの? あ、好きじゃないと昼休みに図書室来ないか!」
彼女の声は、図書室に差し込む太陽のように明るく、大きかった。
図書室に入り浸る女の子、なんていうのは大体声の小さい子だという僕の偏見と経験則(わずか八年かそこら)は、まるで当てにならないらしい。
すっかり面食らってしまった僕は、腰が引けながらもゆっくりと言葉を紡ぐ。
「好き、だと思うよたぶん。少なくとも人よりはたくさん本読んでると思う。君の今読んでる本も……」
「え! そうなの!」
「うん、ルパンシリーズはお母さんが全部買ってくれた」
「えー! いいなあ。あっ、私まだ全然読めてないからネタバレしちゃダメだよ!」
「そ、そりゃもちろん」
「あなたたち」
そこまで話したところで、大人の女性に声をかけられた。司書さんだ。
「大きな声で話しすぎよ、他の子の迷惑になるから話すなら外でね」
至極真っ当な注意をされてしまった。僕自身、図書室で騒いでる児童がいたらイライラするだろう。
「すみません」「ごめんなさい」
「気をつけなさいね」
そういうと司書さんは僕の歩幅の三倍はあろうかという大股で、すたすたと図書準備室に戻っていった。
それを見届けた彼女はこちらを見て、恥ずかしげにぺろっと舌を出した。
「あはは、怒られちゃった」
彼女は手に持っていた本を少し背伸びして本棚に戻すと、こっちを見てにっこり笑ってこう言った。
「じゃ、迷惑にならないように外で話そっか」
「う、うん」
威圧感があるわけじゃないけれど、拒否できない力のある彼女の言葉に、僕はうなずくしかなかった。
僕たちは図書室を出て、エントランスに向かった。ここにはいくつかベンチが置いてあって、僕たちはそのひとつに並んで腰かける。
ここに至ってようやく気づく。僕は彼女の名前すら知らない。
「……あの、いまさらなんだけど、名前を教えてもらってもいいかな。僕の名前は……」
「一ノ瀬くんでしょ?」
自己紹介をしようとした矢先、彼女の言葉に遮られてしまった。しかも彼女は僕の名前を知っているらしい。あんまり人の顔を覚えるのに自信はないけれど、僕のクラスに彼女はいなかったはずだから違うクラスのはずだ。
……いや、もしかすると違う学年だったりするのか? ずっとタメ口でしゃべってしまったけれど、まずかったのではないか。小三にもなるとその辺の分別がついてくるのだ。
「何で知ってるの……ですか」
「……なんで突然敬語?」
「いや、もしかしたら年上なのかと思って……」
僕が恐る恐るそう言うと、彼女はくすくすと笑ってそれを否定した。
「違うよ~。 同じ学年だから大丈夫!」
「よかった……。でも何で僕の名前知ってるの?」
「君のクラスの友達に教えてもらった。私、顔は広いんだ」
えへん、と得意げに言う顔は、少し可愛かった。
「でも君から直接名前を聞きたいな」
「どうしてわざわざ……」
「私だけ自己紹介するの恥ずかしいじゃん」
自己紹介に恥ずかしいとかあるんだろうか。独特な感性だなと思ったけど、もしかしたら世間一般の女の子はみんなそうなのかもしれない。女の子が何を考えているかなんて、今の僕には全然わからないけれど。
「えっと、じゃあ改めて。僕の名前は一ノ瀬悠希。先月日本から引っ越してきたんだ」
そう言うと、彼女はミモザの花のように明るい笑顔を浮かべて僕に自己紹介を返してくれた。
「私は蒼井穂波。パリには一年前から住んでるから君より一年先輩だね。よろしく、一ノ瀬くん」
これが、僕と彼女、穂波との出会い。
僕にとって宝石のように大切で、同時に決して忘れることのできない鎖のようでもある、そんな唯一無二の日々の始まりだった。




