精霊
ゆっくりと瞼が落下する。夜のとばりが下りるように、そっと今日に別れを告げる。今日の一つ一つが頭を駆け巡る中で、いつの日か見た庭での光景を手放せずにいた。それもいつしかは消え、漆黒の装いを着た乙女の薄布を切り裂けるように、抗えぬ力をもって夢へと誘われる。瞼の間から見える閃光が、ゆっくりと端を失って、点となって、消える。
目が覚めれば、静かな夜と化していた。夜を照らす月はお隠れになっているにもかかわらず、そこらじゅうの水や木や雲に色を映し、暗がりを青く染め上げる。それが、空に向かうほどに細く、暗く、途切れそうなクモの糸のように美しく伸びていく。地平線に消えるたびに過去を紅く彩る夕方と、この夜の世界はまるで対になっていて、今日と明日の自分を二つに分けるよう。ああ、昨日の私に別れを告げる必要があるな、そう舞台を整えられたようだ。しかし、廊下の木材に青い月明りが差し込んで染み込むさまは、実に美しく見事である。何の不純な動機もなく、何の下心もなくすっと引かれただけはある。廊下の先を、一定間隔で光が差し込むように設計されている。それが、廊下の長さやこの家の風格をさらに強調し、際立てている。
私は、この夜が好き。私の本当の居場所のようにも感じる。ずっとここにいて、ずっとここで生きてきたような。目が覚めた、というのは少し語弊があるようだ。その庭には、見覚えのあるものがない。そして、異様に広い。真ん中に足を広げて座り威厳を放っていた石は、消える代わりに元々あったでろう花の群れになっている。時間が経つにつれてどこからか霧が立ち込める。庭の異様さに目を向けようとしても、その姿を隠さんとするように霧が草木を抱く。風は吹いていないのに花が揺れている。それも、手前から奥にかけて揺れ、まるで誰かがその場所に歩いているように。そして動きが止まった。均等に高さを揃えられた礼儀正しい草は、海のように広大に広がっている。そこに足を踏み入れれば、それはこことは違う世界に繋がっている、そんな妄想や期待を抱かせる。ここに、足を入れれば。そして、別の世界に行けば違う自分を見つけられるかもしれない。
彼女の一時の期待と、本当は変わりたくはないけれど、それを隠して強がる偽りを秘めて、布団から誘い出されるように部屋を出て、静かに戸を開いてしまった。もう少しで届く距離に迫った。
「元の世界に戻れなくなるぞ。」
顔を上げ、その声のする方を見た。風が止まったあの場所で、一人佇む。白い花に囲まれた場所で、彼は足元を隠し立っている。しかし、後ろを向いていて顔を確認できない。
「・・・・」
私は、声が出なかった。声をかけるべきなのかどうかも迷った。涼しげな川の色をそのまま映したように綺麗な着物を着て、肌は白い。花の色が移ったように白い。月明かりが照らすが、青くはない。
「私は、誰でもない。」
「どこから庭に。」
「もとより、ここにいる。先ほどまでお前の側にいただろう。」
私は、この機会を逃すまいとして聞き出そうとした。
「あなたは、風なのですか?」
「・・・」
「ここにあった石と関係があるのですか?」
「・・・」
「私と関係があるのですか?」
「ゆうこ、と言ったな。」
「はい、、、、なぜ。」
「お前がここに訪れたのは、運命だ。はるか過去から仕組まれた運命。」
「それは、どういう、、」
「お前は、必要な存在だ。」
大きな風が吹き、彼の髪が美しくなびく。もしかしたら。
「顔を、顔を見せて。」
その青年は、ゆっくりとゆうこを見た。刺すような視線で、まるですべてを見通すように。ゆうこは、全てを見透かされそうになり、怖くなった。しかしそれよりも、その美しい顔に見とれた。傷のない顔、美しい肌。その肌の色、目の色でさえなぜか愛しい。
「きれい。」
それで彼が何かしら反応してくれるかもしれないと期待を寄せて、強かに心を動かす。
「お前の祖母のおかげだ。しかし、もう削られてしまった。」
彼が見せる足には大きな亀裂が走り、石灰化していた。確かあの時見た石は、以前よりも小さくなっていたように見えたが、錯覚ではなかった。ああ、この人は石の精霊か何かなのだ。
「私の祖母は、この庭を愛しています。そしてあなたも。」
身体を傷つけてしまった詫びをして、少しでも心を開かせようと下心を見せた。
「何か勘違いをしておるな。」
ゆうこは、ぐっと身を乗り出す。
「これは夢なのだ。」
乗り出した体を止めることができない。
「お前が作り出した、妄想だ。」
ゆっくりと時間が流れる。私には、訳が分からない。なぜか手を伸ばし、庭に触れようとした。
「夢から覚めよ。」
思いっきり体を庭に出し、手を伸ばして彼を、彼の手を掴もうとした。世界は崩れ、月が私に怒っている。強い光が差し、庭の草木花が一斉に枯れる。花びらは散って空に舞う。枯草はその鋭い葉でゆうこの足を傷つけた。痛い。もしかしたら血が出ているかもしれない。
目が覚めた。まだ夜である。荒くなった息遣いと、首筋を流れる汗だけがそこにある。
「はぁ、はぁ、、、、ふぅ。」
首を傾け、手で首を拭う。頭を回し先ほどのことをじっくり考えようとした。その時、不思議と右足に違和感を覚えた。手で触ってから確認すると、何かを掴んだ。
「うわっ、」
それは固い羽音をたてて庭へと消え、飛び去る一瞬だけを見ることができた。カブトムシだ。足元を見ると、昨日はなかった擦り傷が足元にあった。手を見ると血がついている。カブトムシが私の足元にいて、私の擦り傷から流れた血を吸っていたのか。それで、あんな夢を見ていたのかもしれない。汗をかくのも無理はないな。
私は、もう一度布団に横たわる。首元の汗が染みて枕が冷たくなっているが、それよりもカブトムシに触れてしまった方が気味が悪い。不安が去って安心したのか、もう一度眠りにつく。天井の木目を目で追っているうちに自然と瞼が幕を下ろした。
あの夢は、本当に夢だったのか。
夢の彼の正体は、誰なのか。




