七月八日 雨
ゆうこ 14歳 中学二年生の女性。
この夏、刺激を求めて母方の実家に帰省。
そこで出会う人々と、魅力的な兄弟、そして父との距離を改める物語である。
叶わぬ恋の成り行きは、意外にも新しい世界のきっかけになるやもしれない。
やる気のない日々から抜け出そうと、意味のない策略を立てては実行に移せずに過ごす、そんな夏はこれで何回目であろうか。人生で何回も背けてきた、「夢はあるか」という質問に答えられず、適当に親の仕事をあてがっていただけの日々も、いずれは後悔するだろうと思いながら、ボーっと学校の窓から空を見上げる。今日の修了式の日を何も修めぬままに終える私は、あの雲のように、右から左へただ流れるだけの生活を送っていただけで、後悔もなく、ただ何の感情もなく、毎日が過ぎ去るように終わっていくことのみを願うようになっていた。
窓の外では修了式の日というのにサッカーをする元気な下級生がいて、この窓一枚を隔てて世界が分かれているような気がした。窓を閉めればこの世界と遮断できるはずもなく、この世の騒々しい現実や人の往来から離れられないでいる。都会であればなおさらで、常にどこかへ逃げたいという逃避の感情が心を支配しようとしていた。
「遠くへ行きたい。」
そんな言葉が口から洩れる。どこか遠くへ。ここから少しでも離れられる場所へ。
気力のない若い娘が窓の淵で突っ立っていると、同じく若い娘がウキウキとした声で話しかけてきた。
「ゆうこ、やっと夏休みね。ひと時だけど学校に来なくていいなんて最高。宿題がなかったらもっといいのにね。」
「そうね。でもあんたのことだから、もう終わるでしょ。」
「うふふ、困ったら見せてあげる。」
「あんたの字は読めたものじゃないから無理よ。でも、今回はきれいに書いているわね。何かあったの?」
「人間とは不思議ね。」
「ん?」
「恋というものをしたことがあるかしら、ゆうこ女史。」
「あなた、まだあれを諦めきれてないの?もう苦しみたくないって言ってなかった?」
「違う人よ。もっといい人。恋は女をきれいにするようね。」
「恋は人を未熟にするのよ。」
「完璧でいたいなんて思ってないから結構よ。」
「あ、そう。」
この子は、友人の淳子。三つ編みに丸眼鏡がよく似合う。瑞々しい真夏の果実が、蓄えた果汁を踊りながら飛ばす、そんな例えが似合うようなフレッシュさを持ち合わせ、風が素直に吹き通るような良い意味で空っぽな体には、誰の唾もついていない。そんな女が、今こうして男との熱帯夜を語る。また先を越されてしまった。そのはずであるが、私と同じ女であるということが、彼女を理解するのに最も役に立つ。
「それで、手は繋いだの。もちろんそうよね。」
「え、うん、そうよ。もちろん。」
急に突き付けられた刃に驚いて後ろに少しのけぞるように、彼女はまさに意表を突かれたような顔をしている。
「やっぱり。そうだと思った。」
「彼ね、汗をかくのが得意みたい。」
「理由になってないわ。」
まだそこまで進展してはいなくとも、彼女がこうして一日を素晴らしいものにしようと意欲的に生きている姿を見るのは悪くない。というより彼女のそうした快活な精神が好きだ。
「ゆうこ、晴れてよかったね。」
「うん。」
「あの先輩とは結局・・・。」
「あの後別れて帰った。」
「なんで、好きなんでしょ。○○さん。」
「うーん。」
「別に好きな人ができた?」
「ううん、今は誰も好きじゃない。」
「じゃあ・・・。」
「あの日は・・雨だったから。」
七月八日 雨
・・・・・・・
傘をさして家へ帰る。それを朝起きてから考えるほどに億劫で、年々早まる梅雨の到来を和歌にして歌うような趣もなく、ただただ迷惑に思っていた。窓際に座っている人は、いつも窓の外を眺めては、雫が垂れて落ちていくのに合わせて頭も下へと垂れていく。それを寝ていると勘違いされたのか教師に叱られて、それでも物珍しそうに窓を眺める。私はそうありたくなかった。雨に心動かされる自分を晒したくなかった。自分だけが知っていたいのであり、誰もいない帰り道で傘から頭を出し、空を見上げ、顔にかかる曇天の涙を受けて、まるで自分が流した涙であるかのように、空の悲しみを受け止めたいのである。そんな光景を好きだった彼に見られてしまった。
私は彼を知っている。彼は私を知らないだろう。だからこの場を静かに離れて、近くの駄菓子屋に逃げ隠れよう。そうした矢先に、声をかけられてしまった。
「あれ、見たことのある顔の人だ。楽しそうなところ邪魔したかな。」
「あの。○○先輩ですよね。」
「よく知っているね、俺も有名になったか。うんうん。じゃあ話は早いな、この先に駄菓子屋があるんだけど・・。」
「はい、知っています!」
「元気イイネ。もちろん一緒に?」
「はい。行きます。」
こうして、一緒に行くことになった。彼は、先ほどの光景のことは一切触れず、気まずい顔もせず、ウキウキと駄菓子屋のことだけ考えているような顔している。この雨の日にもかかわらず、テンションが高い。感情が真っすぐに貫徹している。初対面で彼に会えば、何の淀みもないような青年のように感じるだろう。彼は淳子と似て、まっすぐである。だから好きなのか。
この状況を淳子にLINEで報告しよう。
(先輩と一緒に帰ることになった)
(やるじゃない。雨の中を歩く二人の後ろ姿見たい。)
(またあとで返すから)
(楽しんで。)
先輩を待たせてまでした知られたくないLINEは、彼の好奇心をそそるに十分だった。ゆう子の傘にぬっと入り込む。少し前かがみになる程度の距離を保っている。
「もうすぐ着くよ」
傷跡に染みる水のように、体が拒否反応を起こすがすっと馴染む。彼をこんなにも近くで見たのは初めてであり、顔の凹凸やニキビ跡をマジマジと見てしまった。ああ、彼も人間なのだ。私と同じで、私と何ら変わりない。勝手に安心して、勝手に好きになってしまった。雨の中に咲くアジサイのような、雨に打たれようと色褪せることのない見事な、あまりに見事なアジサイのような。
私は、彼の肌に触れたくなった。この手で、その雨を拭いたい。そう思わせてくれた彼は、至って純粋で、
「こんちは、おばちゃん。」
傘についた雨粒が飛び散らないように静かに畳む。私も静かに畳んだ。傘を閉じて移動するほどの広さを要さない小さな空間を、この道数十年の店主はうまく使っている。彼女の目の届く範囲に揃えられたお菓子は、年をとって背が伸びた今でも、同じ目線になって優しく微笑んでくれるようである。そうして小さい頃の思い出と共に味わう。好きな雨の中、好きな人の隣で、好きなお菓子を食べる。
「うまいな」
「ふふふ」
駄菓子屋の軒先の向こうには、青の世界が広がっている。人の心の奥深くを覗いたような色、思い出を取り込んだビー玉のような色とでも言えるだろうか。何とも魅力的な深い青色を、なぜそこまで愛しているのかうまく言葉にはできないが、彼越しに見る世界がすきなのだろう。彼のいる世界がすきなのか。本当に彼が好きなのか。それを説明できるのか。自分に嘘をついていないか。徐々に不安になってくる私は、今この喜びをかみしめるだけで精一杯で、無力なのか無気力なのか、愛する力が湧いてこない。
「おや、雨があがったね。」
雲は去り、日差しが水たまりに振りそそぐ。穏やかに晴れていくのと同時に、彼の表情も晴れていくように見えた。活発な精神が輝きを取り戻していく。ああ、彼はやはりそちら側の人だった。彼のいる世界だけが晴れていく。私は雨が好きなのではなく、私自身が雨なのだろう。やはり一緒にはいられない。今はまだ、一緒に居られるだけの人間にはなっていない。どこかで変わらなければ、私はこの人と歩くことさえ叶わない。
「お、良い天気になった。」
彼はすっと立ち上がり、私は座ったままで、
「晴れてよかったね」
同じセリフを交わす。そうして雨がやむのと同時に、彼への思いも納めることにした。私にはまだ早い。まだ雨は止んでいない。
「ねえ、雨が降っていたからってなんで嫌いになるのよ。理由になっていないわよ。」
「まだ晴れてないの。私の気持ちもそのまま。」
「ずっと今のままよ。この夏で変わりなさい。」
「・・・。」
変わる、ということの証明は何でもって成しえるか。人の変化を可視化するだけの材料がなければ、変わったと言えないのか。また、変わることは必然なのか。変わってしまうことに後悔はないか。あれ、これ、と浮かぶのは、決して言い訳ではなく、ただ恐れているだけでもない。変わるということが、自分の過去と照らし合わせた結果ただの転化であっただけで、変わるということと成長するということが、どうしても結びつかない。そうした歴史を持つ私に突き付けられた「変われ」という言葉は、恐怖として解釈されてしまうのであった。しかし、私は本当に変わりたいと思っている。今の自分に嫌気がさしており、よりよくなるための努力をしたいと本気で思っている。
母方の祖母の家に近づくにつれ、空が大きくなっていく。東京とは違った空に浮かぶ私の顔は、今のところ東京の空と何ら変わらない。この夏で本当に変われるのだろうか。




