プロローグ
近未来SFです。序章としてお読みください。
全ての歯車が狂い始めたのは、十四年前――西暦二〇四二年だ。
けれど、本当に「分岐点」と呼べるものがあるとしたら、それはもっと後、私がまだ数字も読めなかった頃にやって来た。
二〇四六年、大阪は核で焼かれ、日本は降伏した。
父・豊色匠は戦争犯罪人として裁かれ、詩島博士はコメリカへ消えた。
もっとも醜悪な手段を選んで。
私は、何も知らない子どもだった。
占領が始まって二年。
街には「復興」という言葉が貼られ、瓦礫の上に看板が立ち、笑顔のポスターが風に揺れていた。
その薄い幸福の下で、私の世界は――静かに、決定的に壊れた。
私の運命が破局を迎えたのは二〇四八年。
父が処刑された日の夜だった。
鉛のような雨。
空は低く垂れ込み、季節外れの雷が荒廃したコンクリートを打ち据えている。
放射能の雨ではないはずなのに、敗戦国の空気を吸い込んだような、鉄錆に似た匂いがした。
当時六歳だった私は、母と身を寄せていたアパートへ戻った。
濡れた靴下が足首に張りつき、指先が冷たく痺れていた。
「ただいま……お母さん」
鍵が開いていた。
ドアの隙間から、男の背中が見えた。
詩島博士。
かつて父の親友であり、今はコメリカへ亡命した男だ。
何のために来たのか、当時の私には分からない。
母の声が、聞こえなかった。
母は、私と詩島のあいだに、半歩だけ立っていた。
その瞬間。
母の身体が、わずかに揺れた。
声はなかった。
私が靴を脱ごうとした、その背後で。
男の手が動く気配とともに、鍵の音がした。
カチャリ、と。
その時、視線が勝手に動いた。
詩島の背後。部屋の奥。暗がり。
そこに、もう一つ影があった。
大人ではない。
私と同じくらいの背丈しかない、小さな影だ。
深々とフードを被り、顔は見えない。性別も分からない。
けれど、その小さな身体のまわりで、紫の火花が散っていた。
パチパチ、と。
まるで、意志を持った電気みたいに。
(……子ども? 違う)
理屈より先に、本能が言った。
あれは人間じゃない。人の形を借りただけの、何かだ。
次の瞬間、窓の外で、世界を引き裂くような落雷があった。
光が白く裂け、遅れて轟音が来る。
ドォォォン――!
呼応するように、影の手が赤く光った。
――一瞬だけ、影の動きが止まった。
次の瞬間、紅蓮が噴き上がった。
空気が焼け、視界が白く弾ける。
熱風が、私の背中を押した。
そのとき、母が倒れているのが見えた。
私は転がるように前へ投げ出された。
ドアではなかった。壁が、崩れていた。
「いやああああああああ!!」
私は絶叫し、背中を熱波に焼かれながら部屋を飛び出した。
階段を転げ落ち、雨の中へ放り出される。
雨と泥にまみれ、路地裏の闇へ逃げ込む。
建物が崩れる音。ガラスが割れる音。炎の唸り。
理性が「戻れ」と叫んだ。
でも、それより強く本能が鳴らした。
――戻れば、終わる。
あの部屋には、母の死と、炎と、紫電と、そして名づけられない何かがいた。
圧倒的な暴力への恐怖が、六歳の私の足を凍りつかせた。
あの夜、床に倒れていた母は、声を出さなかった。
それからの三日間は、記憶というより「痛み」の記録だ。
私は野良犬みたいに街を彷徨った。
「お母さん……」
もちろん、気にならないわけがない。
置いてきた後悔が胸を締め付ける。
だけど戻れない。
戻れば終わる。
その予感だけは、妙に鮮明だった。
翌日の昼。
恐怖に震えながらも、人混みに紛れて焼け跡の近くまで戻ってみた。
規制線の向こうで、警察と消防が煤にまみれて何かを探していた。
近隣の住人たちが口々に言う。
「酷いもんだな。あの角部屋、跡形もねえぞ」
「小さい娘さんが帰ってきたのを見たんだ。その数分後だ。凄まじい雷が落ちて、ドカンだ」
……帰宅は見られていた。
でも逃げ出した姿は見られていない。
だから彼らは信じ込んでいる。
母と娘は炎に呑まれたはずだ、と。
けれど、現場から聞こえてきた会話は異様だった。
「……おい、どうなっている? “仏”が出ないぞ」
鑑識のベテランらしい男が、消防の一人に声をかけた。
「なあ、消防さん。本当に骨片のひとつも出ないのか?」
「鑑識さん、そうなんですよ。この燃焼温度なら、完全に灰になることはありえません。母と子ども、二人分の骨や歯が残るはずだ……まるで、最初から誰もいなかったみたいだぞ」
その言葉を聞いた瞬間、背筋に冷たい電流が走った。
私がいないのは当たり前だ。逃げたから。
……でも、母は?
あの夜、床に倒れていた母の顔を、私は確かに見た。
なら、何かが残っていなければおかしい。
残らないはずがないのに、残っていない。
頭の中にいくつもの答えが浮かんでは消える。
そのどれもが、口にしたくない種類の答えだった。
吐き気がこみ上げた。
これ以上ここにいてはまずい。
見つかれば、どこかへ“戻される”かもしれない。
私は逃げるように踵を返した。
父は処刑され、家は消え、母は消えた。
私の顔は「悪魔の娘」として知れ渡っている。
警察に行くことも、知人を頼ることもできない。
私は主が疎開して無人になった廃屋に忍び込み、カビ臭い押し入れの中で震えながら眠った。
食料は進駐軍の残飯あさりか、闇市のゴミ箱だ。
プライドなんてとっくに捨てた。
泥水をすすってでも生きなければならない。
十一月の冷たい雨がトタン屋根を叩く音が、やけにうるさかった。
それだけは、はっきり覚えている。
三日目の夜。
意識が朦朧として、路地裏のゴミ捨て場でうずくまっていた時のことだ。
一台の黒塗りの高級車が、音もなく滑り込んできた。
ヘッドライトが私を射抜く。
逃げようとしたが、足が動かなかった。
後部座席のドアが開き、革靴を履いた男が降りてくる。
仕立ての良いスーツ。脂ぎった笑顔。
見覚えがあった。
二年前――まだ日本が降伏する数ヶ月前。
九条博士の邸宅で開かれた「戦後復興研究会」。
集まった科学者たちが沈痛な面持ちになる中、
一人だけ目を「円イェン」の形にして、戦後の金儲けの算段を弾いていた製薬会社の社長。
名前は確か――浅川。
「やっと見つけたよ、理花ちゃん。初めましてじゃないよね。そう、君は私のことを知っている」
浅川はハンカチで鼻を覆いながら、ゴミまみれの私に近づいてきた。
まるで、最初から私がここにいると知っていたような口ぶりだった。
「アパートが燃えたと聞いてね。慌てて探させたんだよ……骨が折れたがね」
「……どうして、私がここにいると分かったの?」
乾いた唇で尋ねる。
本当は、別のことを聞きたかった。
だけど喉の奥で、冷たい警報が鳴っていた。
――聞くな。すがるな。弱みを見せるな。
浅川はニヤリと笑い、芝居がかった仕草で肩をすくめた。
「簡単なことさ。私は君のお父さんのファンでね。あの会合でも、彼は君を自慢していた」
「『理花は私を超える天才だ。一人娘だが、千人の科学者に匹敵する』ってね」
浅川の目が、値踏みするように私を見た。
六歳の少女ではなく、換金可能な「何か」を見る目だ。
「そんな金の卵を、みすみす野放しにするわけがないだろう? 実はね、部下に見張らせていたんだよ。君のアパートを」
私は息を呑んだ。
「……見張っていた? なら、お母さんが――」
言葉が途切れた。
口にした瞬間、二度と戻れない気がした。
浅川は悪びれもせずに続けた。
「残念ながら、到着した時には手遅れだった」
「でも報告は受けている。『炎の中から小さなネズミが一匹、逃げ出した』ってね」
ドクリ、と心臓が跳ねた。
こいつは知っている。
少なくとも、私よりずっと多くのことを。
(あの夜、部屋にいた“影”は――)
喉元まで「教えて」がせり上がる。
でも、聞けば終わる。
この男は、その情報を餌にしている。
私は歯を食いしばった。
「……で、何の用?」
掠れた声で言う。
「私に関わると、あんたも非国民扱いよ」
「ハハハ! 金に色はついていないさ」
浅川は私の前にしゃがみ込み、温かそうな缶コーヒーを差し出した。
甘い匂いが、理性を揺さぶる。
「どうだい? 温かいベッドと食事、そして研究を続けられる場所……欲しくはないか?」
私の直感が告げていた。
こいつも敵だ。
私を飼い慣らし、骨の髄までしゃぶり尽くすつもりだ。
だけど今の私には、この腐った蜘蛛の糸しか見えなかった。
ここで野垂れ死ぬか。
悪魔に魂を売ってでも生き延びるか。
私は缶コーヒーをひったくり、一気に飲み干した。
熱い液体が胃に落ちた瞬間、私は「子ども」であることをやめた。
涙を袖で乱暴に拭い、ハイエナの目を真っ直ぐに見返す。
「当然……タダじゃないよ」
「ほう?」
「私の頭脳を買うなら、それなりの対価を払いなさい。生きる場所と、研究設備、そして金……飼い主になっていい。でも、首輪の鎖は私が握る」
六歳の生意気な口調に、浅川は呆気にとられ、やがて腹を抱えて笑い出した。
「ハハハハ! 傑作だ! 君は本当に六歳かい? 戦犯の娘だと思ったら、とんだ商売人じゃないか!」
浅川は手を差し出した。
「いいだろう。商談成立だ」
私はその脂ぎった手を取った。
泥だらけの私の手が、男の掌を汚す。
それが、私とアサカワ製薬との――地獄への同乗の始まりだった。。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
また次回邂逅編(空白の8年と、秘密の粘土)をお楽しみください。




