2:夢か現実か。少女と歩き出す未来
「自己紹介が遅くなりました。俺の名前は、響と言います。助けてもらってありがとうございます。
ところで…俺が病気なんて、ルナさんに教えたっけ?」
思わず口から出た言葉に、ルナは額の琥珀の宝石を揺らしながら、にっこりと微笑んだ。
「治療師は、その人が抱えている病を、視るだけで理解できます。貴方の病は、徐々に体の筋肉が失われていく進行性のもの。でも安心してください、既に治療は完了しています」
は……?
ハイブリッド型筋ジストロフィー。それは、筋肉が徐々に破壊されるだけでなく、神経細胞の伝達異常も併発する、現代医学の限界だった。
冷凍催眠に入る直前、俺は既に感覚神経と運動神経が麻痺し、呼吸器系の補助なしでは命すら危うい状態だったのだ。
それが、完治した?理解が追いつかない。
(夢?いや、異世界転生か。なるほど、だから聖導暦で、魔法使いがいて、病気が治るのか……)
自分の置かれた状況を、響は《《異世界転生モノのテンプレート》》に無理やり当てはめようとしていた。
「窓の景色が見たい……」
「お手伝いしますね」
ルナの補助を受け、俺はゆっくりとベッドから身を起こし、地に足をつける。自分の体を重たく感じると共に、心地よい床の冷たさを感じた。
いや、待て。寝たきりの状態だったのだから、筋肉は極限まで衰えているはずだ。自力で立ち上がるなど、絶対に不可能――
「俺、立ち上がれないくらい、衰弱していたはずなんですが……」
ルナは当然のように答えた。
「溶けて失われた筋肉は、全て《《治癒魔法で修復》》いたしました。感覚神経も完璧です」
ルナの言葉に、俺は信じられない思いで、自身の身体を確かめた。骨と皮ばかりだったはずの腕に、微かな弾力のある筋肉の感触がある。そして何より、麻痺して何も感じなかったはずの指先に、シーツの粗い布地が触れる感覚が鮮明に戻ってきている。
驚きは、すぐに感動へと変わった。
「ああ……生きている」
全身の細胞が、何十年の停滞から解放されたかのように、一斉に活動を再開しているのを感じる。それは、数年ぶりに激しい運動をした後のような、心地よい疲労と、満ち足りた生命力だった。
「そうか……俺、治ったんだ……」
こみ上げる感情を止められず、自然と目から涙が溢れた。数十年、**『死』**という絶望的なゴールしか見えなかった人生から、一瞬の魔法によって解放されたのだ。
「ルナさん……本当にありがとう。貴方は、命の恩人です。このご恩をどうやってお返しすればいいでしょう……」
「治療師が、病を患っている方を助けるのは当たり前のこと。患者さんの感謝の言葉と、笑顔を見るために、私は治療師をしていますから」
その純粋な優しさは、まるで絵本から飛び出してきた天使のようだ。俺は、自分自身の孤独や絶望が、この女性の光のような優しさによって断ち切られたのを感じた。
無意識のうちに膝をつき、ルナの手を握り頭を下げていた。
「響さん……やめてください。私は、貴方の笑顔が見たいです。ほら、立って立って!」
ルナの手を取り、窓まで歩く。足取りはまだ覚束ないが、一歩ずつ前に進める。
ルナが窓を開けると、心地よい風と、木と土の匂いがさらに強く感じられた。そして、その風に乗って、窓外の景色が俺の目に飛び込んできた。
目の前には、石と漆喰でできた簡素な家々が並ぶ、小さな村落が広がっている。周囲は木々に囲まれ、まるで遥か中世のヨーロッパに転生したかのようだ。
しかし、視線を遠くへやった瞬間、違和感が走った。
遠くの丘の上、鬱蒼とした森を突き破って、巨大な黒い石柱が、不自然なほど垂直にそびえ立っている。それは、自然の岩が風化したような有機的な形状でありながら、同時に人為的な巨大構造物のようにも見えた。
(なんだ、あれは?異世界の巨大な魔王城の塔か?いや、それにしては曲線が不気味すぎる……)
大自然の中に存在する、不気味な人工の気配。そのちぐはぐな光景を見て、響の心臓は再び動揺しなかった。
(やっぱり、これは夢か、超凝ったVRゲームだ。そうでなければ、こんな矛盾した景色はありえない)
難病は治ったのに、俺はまだどこか**「壊れている」のではないかという、新たな恐怖が胸に去来した。この「ゲーム感覚」**が、響の心を世界から切り離し、冷静な分析へと向かわせるのだ。
「ルナさん……俺は、治療代を払う余裕がありません。今、無一文です。頼れる身内もいません。なんなら此処が、何処なのかも分かりません。何故、自分が此処に居るのかも分かりません。これから、どう生活していくかも分かりません。あなたの御恩を、どうやって返せばいいのでしょうか……」
ルナは、俺の隣で窓から外を眺め、一呼吸おいてから、満面の笑みで俺の顔を見た。
「それじゃあ、こうしましょう!今から私のことは、ルナと呼んでください。そして治療代は、私の助手としてこの診療所で働きながら稼いでください。衣食住も全てお付けします!」
「……え?」
「どうでしょうか?私、一人暮らしで、とっても忙しいのです!響さんが手伝ってくれると、私も助かります。それに……一人だと寂しいですから!」




