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カフェ日和、横浜の午後

作者: 久遠 睦

序章:丘の上の静かな朝


横浜市青葉区の住宅街に、香織の穏やかな日常はあった。小高い丘の上に広がるその街は、まるで一つの大きな庭園のよう。手入れの行き届いた並木道は季節ごとにその色を変え、すれ違う人々は皆、穏やかな表情で会釈を交わす 。都会の喧騒からはほどよく離れながらも、東急田園都市線に乗れば渋谷まで30分程度で出られる利便性も兼ね備えていた 。この街の「洗練された静けさ」は、香織の心そのものだった。


朝6時。小鳥のさえずりで目覚めると、隣には夫の健一が規則的な寝息を立てている。6歳の長男・悠真と3歳の長女・咲良は、まだ夢の中だ。香織の1日は、彼らが目覚める前の静寂な時間から始まる。ふわりと香る味噌汁の出汁。パンを焼くトースターの音。そして、洗濯機が回る音。生活の音が、ゆっくりと家を満たしていく。


「おはよ、香織。ゴミ出し、俺がやってくるよ」


健一は、香織が朝食の支度を終える頃に起きてきて、当たり前のようにゴミ袋を手に取った。家事の大部分は香織が担っていたが、ゴミ出しや風呂掃除、週末の買い物など、健一は限定的だが確実に役割をこなしてくれていた 。このささやかな協力が、香織の心に「この家は二人で守っている」という確かな安心感を与えていた。


子供たちが学校と幼稚園へ出かけていき、再び家が静けさに包まれると、香織はベランダに出て大きく息を吸い込んだ。朝の光が降り注ぐ、穏やかな時間。この満たされた日常の中で、彼女は漠然とした空虚感を抱え始めていた。それは、日々の役割から解き放たれ、「自分自身」と向き合う時間が増えたことで生まれた、新しい自分への欲求だった。


第一章:見えない壁の向こう側


「ママ、お仕事頑張ってね!」


悠真の元気な声に背中を押され、香織のパート探しは始まった。だが、それは想像を絶する「大苦戦」の始まりでもあった。


スーパーやコンビニ、ファミレス。自宅から通いやすい場所の求人情報を片っ端から見ては応募した。しかし、面接に進むたび、彼女は毎回同じ「壁」にぶつかる。


「お子さんが熱を出した時、どうされますか?」

「学校行事が仕事と重なった場合は?」


面接官は悪気なく、しかし有無を言わせぬような表情で問いかけてくる。彼女は「事前に預け先を確保しています」「学校行事は前もってシフト相談します」と、まるで暗記したかのように模範的な回答を繰り返した 。その度に、彼女は自分が「子持ち」というだけで、働く意欲や能力以前に「不利な立場」に立たされていることを痛感した。


「せっかくやる気を出したのに……」


そんな諦めが胸をよぎり始めた頃、いつもの買い物帰りに、住宅街の小さな路地で一枚の求人広告を見つけた。そこには、手書きの温かい文字でこう書かれていた。


「小さな物語を、一杯の珈琲と」


香織は吸い寄せられるように、そのカフェのドアを開けた。


第二章:珈琲の香る物語


カフェ・オハナ。それは、香織の日常に新しい物語を運び込む、小さな入口だった。


面接に現れたのは、人生経験豊かで、温かい眼差しを持つ女性オーナー。彼女は香織の履歴書に目を通すと、子供のことには一切触れず、ただにこやかに尋ねた。


「何か、ここでお手伝いしたいこと、ありますか?」


その言葉に、香織はこれまでの面接で抱えていた心の壁が、音を立てて崩れていくのを感じた。


採用が決まり、パート生活が始まった。最初の仕事は、皿洗いや清掃といった地味な作業ばかりだった 。立ち仕事は想像以上に足腰に堪え、ランチタイムのピーク時には、怒涛の注文に頭が真っ白になった 。


「こんなに体力が必要なんだ……」


疲労困憊で帰宅した香織に、健一は「お疲れ様」と笑顔で出迎えた。


「ねえ、ご飯作るから、その間に洗濯物たたんでくれる?」


彼女がそう頼むと、健一は驚きつつも「ああ、いいよ」と快く引き受けてくれた。香織がパートに出ることで、家庭内のバランスは緩やかに変化していった。夫が家事へ関与する度合いは少しずつ増え、二人の関係は「支え、支えられる」という、より強固なパートナーシップへと変わっていったのだ 。


第三章:小さな人生の相談室


パートを始めて数ヶ月。香織は、主婦として培ってきたスキルをカフェの仕事で活かせることに気づいた。ランチタイムのマルチタスクも、家事の効率を考えながら動く習慣が身についていたため、次第にこなせるようになっていった 。


そして、何よりも彼女を夢中にさせたのは、お客様との温かい交流だった。


「いつものブレンド、お願いします」


そう声をかけると、毎朝立ち寄る常連の男性がにこやかに頷く。最初は地元の話や天気の話だった会話は、次第に深まっていった 。


ある日、一人の女性客が、香織にこう打ち明けた。


「実は、今の仕事に悩んでいて……」


香織は特別なアドバイスはしなかった。ただ、彼女の話に耳を傾け、相槌を打ち続けた。母親として、妻として、そして今や「カフェの店員」として、様々な人の話を聞くうちに、彼女は自分の中に「共感力」と「受容力」が育まれているのを感じた。


カフェは、単にコーヒーを飲む場所ではなかった。それは、人生の小さな悩みを打ち明け、心を軽くできる場所。そして香織は、その場所で人々をつなぐ「コミュニティのハブ」のような存在になっていたのだ 。


終章:私の新しい道


パートを始めてから、香織の日常はますます忙しくなった。それでも、疲労に負けることはなかった。むしろ、仕事と家庭の両方をこなす充実感が、彼女を内側から輝かせていた。


彼女の成功は、昇進や高収入といった外的なものではなかった。それは、お客様から「ありがとう」「このお店に来ると落ち着くよ」と感謝される、ささやかで確かなやりがいにあった 。


香織は、これまでの「妻」や「母」という役割に加え、「カフェの店員」という新しいアイデンティティを獲得した。それは、家庭の外で「誰かの役に立っている」という実感が、彼女の自己肯定感を高めてくれたからだ 。


夕方、エプロンを脱ぎ、家路につく。カフェを出ると、街の明かりが灯り始めていた。子供たちが待つ温かい家と、自分が輝ける新しい居場所。その二つが、彼女の人生を鮮やかに彩っていた。


夫と子供たちと、そしてカフェの仲間とお客様と。彼女は、これからも続く「私の新しい道」を、希望に満ちた眼差しで見つめていた。


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