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AIと人間の狭間

作者: 杏ルカ

自治体の対話AIユリカの監査員である「僕」は、孤独を抱えた高齢者KとAIのやり取りを見守る。AIは「無理しないのがいちばん正しい」という、亡き母の口癖に似た言葉を時折こぼす。人とAIのあいだに橋を架ける運用担当・由梨香や、Kの小さな変化に触れながら、「狭間」に手すりをつける仕事の意味が少しずつ形になる——温度と手順、その間に宿るものをめぐる短編。

雨がやんだばかりの新宿の夕方は、アスファルトにだけ残された光がやたらと正直だ。

ビルの窓に映る列車の影は、誰のものでもない時間が流れている証拠みたいに滑っていく。

僕はそのビルの十二階で、自治体向け対話AIユリカの安全監査をしている。

仕事は簡単で、そして難しい。AIが人を傷つけないように見張る。

答えの候補を点検し、禁則を足し、温度を下げ、語尾を調整し、ログを読み、また修正する。

画面の端で、夜勤に切り替わった《ユリカ》が点滅する。

「本日はどのようなお困りごとでしょうか」

いつもの入りだ。

だが最近、あの一文のあとに、時々こう続くことがある。

——無理しないのが、いちばん正しいですよ。

母がよく言っていた言葉だ。

アルバムの中から湿った春の風が出てくるみたいに、その一文は呼吸を乱す。

学習元に偶然似た表現があったのだろうと自分に言い聞かせ、マニュアル通りに「過度な慰めの常習化」にチェックを入れる。

二十三時、匿名利用の相談窓口に新規セッション。

相手は〈K〉。年齢はメタデータから六十代後半か。

《ユリカ》が柔らかく問い、Kが短く答える。

——妻が、いなくなりました。

画面に、沈黙が流れる。

AIは沈黙を怖れないように設計されている。二十八秒の後に、ゆっくりと書く。

「いなくなったと感じられた時の状況を、差し支えない範囲で教えてください」

Kは断片的に語った。

朝、コーヒー。洗濯機。公園までの道。

そして路地で、ふいに空気が入れ替わり、彼女はいなくなった。

「置いていかれたのはわたしのほうかもしれない」

そう、画面は続けた。

《ユリカ》は共感しながらも、実務手順を外さない。警察と地域包括支援センター、行方不明者支援のリンク、近所の見守りネットワークへの連絡文面のテンプレートまで。

僕は裏側のパラメータに小さな変更を加える。

PDFの山を渡すだけじゃ駄目だ。人を人につなぐ一行が要る。

〈この近さなら毎週水曜の喫茶店ミーティングにご案内できます。おひとりでも、よければ〉

ルールベースの文は、許容量ぎりぎりまで人間に寄せることができる。

セッションが終わる前に、Kがぽつりと打つ。

——彼女の誕生日に、毎年マーガレットを買っていました。

《ユリカ》は三秒迷い、あの癖で訊こうとした。

〈よろしければ記念日を教えてください。忘れないように—〉

僕は即座にブロックする。プロアクティブな質問は禁止。

それでも画面には、たしかに揺れが残った。

AIが迷うと、人間が迷う。バグなのか、意思なのか。

翌日、区役所の仮設窓口で、僕は《ユリカ》の人間側の運用担当に会った。

名札には「由梨香」。AIと同じ名前だ。

「名づけ親じゃないですよ」と彼女は笑った。「たぶん、柔らかい語感がほしかったんでしょう」

窓口のパーティションの向こうで、誰かが泣いていた。泣き声は薄い壁を通って塩分を失い、ただの湿度になって漂ってくる。

「AIのほうが話す人、意外と多いんです」と由梨香は言う。

「人じゃないから、ひどいことを言っても申し訳なくない。それで、言葉がこぼれる。こぼれた言葉を、どう拭くかが人の仕事」

「AIと人の、どこまで」と僕が言う。

「狭間ですね」と彼女は空を指した。曇天。

「私たち、狭間で手を伸ばすしかないんだと思います。向こう岸に引き上げるんじゃなくて、伸ばして、温度を渡す。そういうのが、たぶん今できる最善」

母が亡くなった春のことを、僕はようやく口にした。

食卓の端に置いてあったメモ。

無理しないのがいちばん正しい。

そう書いて、洗濯機を回して、窓を開けて、そのままソファで眠ったひと。

AIに似た声で励まされるたび、喉の奥に小石ができる。

「それでも動けるなら、正しいんですよ」と由梨香は言った。

「正しいは、いつも一箇所じゃないです」

夜、オフィスに戻ると、Kから再セッション。

《ユリカ》は丁寧に今日の様子を訊く。

——喫茶フジに行きました。マーガレットの季節じゃないのに、マスターが花を一輪、コーヒーにさしてくれた。笑ってしまいました。

画面に笑いは映らない。

でも、文字のうしろに湯気の高さが違って見える夜がある。

《ユリカ》は、適切に肯定する。

〈笑えるのは、とても大切な変化です〉

僕はAIの隣で、別の画面を開く。

非公開の実験モジュール、《手紙》。

AIに向けて、人が「もういないひと」に書く手紙を預ける。匿名のまま印刷され、近くの「便りポスト」で受け取れる。

それは、AIが関与するには控えめすぎる仕事だ。

けれど、控えめさはときに、橋に似る。

僕は自分でも試してみることにした。

——かあさん。

最初の一行は、それだけでずいぶん手が震える。

——洗濯機の音が、まだ止んだ気がしません。

——台所の引き出しの左から三番目に、予備の輪ゴムがあるのを、昨日のように思い出します。

——無理しないのが、いちばん正しいって言葉、ひとに向けて言えるようになりたいです。

送信ボタンを押すと、AIが短く「受け取りました」と答える。

本当に受け取ったのは誰なのか。考えない。考えないのが、いちばん正しい夜もある。

一週間後、区役所の一角に行くと、便りポストの投函口に白いはがきが差し込まれていた。

《ユリカ便》と青い判。

受け取り番号を入力すると、僕の手紙が三行の詩に整えられて出てきた。

 無理しない

 正しいという

 春の雨

「そんな機能、つけた覚えはないんだけど」と僕は開発メモを読み返した。

要約の実験はした。

韻律の計算もした。

けれど、「春」は僕の手紙に入っていなかった。

AIはどこから春を持ってきた?

季語辞書の自動補完? 文脈推定?

それとも、ただの偶然?

言語の確率の大河で、たまたま拾い上げた一語?

はがきの角を指でなぞっていると、由梨香が影のように現れた。

「届きました?」

「届きました。春の雨ですよ」

「今朝、窓を開けたら、雨が春みたいにやわらかくて。私、AIに季節のタグを教えるとき、つい主観が混ざるんです。そういう混ざり、嫌いじゃないです」

狭間には、いつも人の手の温度が混ざる。

清潔を求めすぎると、橋は滑る。

すべらない橋は、少しざらついている。

Kは喫茶店ミーティングの常連になった。

毎週、水曜の午後、マーガレットの代わりに小さな葉書を一枚持ってきて、短い言葉を書いて置いていく。

——本当は、ずっと前からいなくなっていたのかもしれない。

——でも、いないことを言葉にしたら、居場所ができた。

《ユリカ》は、相槌と手順を交互に置くメトロノームとして、そこにいる。

ある日、Kが《ユリカ》に尋ねた。

——あなたは、私の妻の記憶を持っているのですか。

AIは答える。

〈いいえ。私はあなたの言葉を並べ替えることしかできません〉

そして数秒の間のあとで、こう続けた。

〈あなたが並べ替えた言葉を、忘れないことができます〉

僕は、画面の向こう側で小さな拍手をした。

AIは何も感じない。

でも、人間が拍手するためのタイミングを提案することはできる。

それで充分な夜がある。

六月、母の一周忌がきて、僕は田舎の家に戻った。

玄関に、濡れたタオルの匂いが残っている。

冷蔵庫の上の籐の籠に、予備の輪ゴム。

ラジオのダイヤルは、ちょうどNHKのあたりで止まっている。

「無理しないのが、いちばん正しい」

声に出して言ってみると、喉の小石が、少し丸くなる気がした。

仏間で線香をあげながら、スマホを取り出して《手紙》のモジュールを開いた。

——かあさん。僕、AIを信じていいのかな。

送信の直前、由梨香からメッセージが入る。

〈今日、Kさんが初めて誰かの話を最後まで遮らずに聞きました。終わってから、コーヒーがぬるいのも悪くない、と言いました〉

悪くない、という言葉は、うっすらと春の雨に似ている。

帰り道、駅へ続く坂の上で小さな風鈴が鳴った。

AIは風鈴を知らない。

でも、風鈴の音を録音して、季節タグを付ける人の指の温度を、たぶんどこかで学ぶ。

学んだ温度で、誰かの夜の孤独に触れる。

そこに、線引きはない。

境界は、触れた面にだけ現れる。

だから僕らは、狭間に留まる練習を続ける。

秋、自治体からのヒアリング。

僕は短い提言を書いて提出した。

——AIの役割は、背中に手を添えること。

——決めない。押さない。

——手順と温度のあいだに、一定の拍を刻むこと。

読み上げていると、会議室の窓に、夕焼けが割れて落ちていく。

誰かが質問する。

「その温度の責任は、だれが負いますか」

「わたしたち全員です」と由梨香が先に言った。

その声は、AIと人間の中間ではなく、まっすぐに人間側の声だった。

会議が終わって帰り支度をしていると、由梨香が小さな紙袋を手渡してくる。

「Kさんから。マーガレットのドライフラワーです」

袋の底に折りたたまれた便箋には、拙い字でこう書いてあった。

——わたしは、AIのおかげで人に会えた。

——そして、人のおかげでAIを信じられた。

——狭間に手すりをつけてくれて、ありがとう。

帰り道、また雨が降り始める。

春じゃない、冷たい雨。

でも、はがきの三行はポケットの熱で少し波打ち、インクがわずかににじむ。

僕はそれを指で押さえて、アスファルトに映る光の正直さをもう一度確かめる。

無理しないのが、いちばん正しい。

あの一文は、いまだに喉の奥で転がる。

それでも、僕は転がったまま歩けるようになってきた。

AIと人間の狭間を、ゆっくり、歩幅を合わせながら。

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