19話「信仰の芽生え」
お犬様ファンちゃん、南無南無。
犬国建国から半年が過ぎた頃、街の様子に微妙な変化が現れ始めていた。人々のファンを見る目が、以前にも増して崇拝に満ちたものになっていたのだ。
「陛下...いえ、星牙様」
朝の散歩中、一人の老婆が深々と頭を下げた。
「どうか、私の孫を祝福してください」
「祝福?」
ファンが首をかしげると、老婆は生まれたばかりの赤ちゃんを差し出した。
「星牙様に触れていただければ、きっとこの子も幸せになれます」
「えーっと...」
ファンは困惑しながらも、赤ちゃんの額に小さな前足を置いた。
「モフッ」赤ちゃんは気持ち良さそうに微笑んだ。
「ありがとうございます!きっとご利益があります!」
老婆が涙を流して感謝している姿を見て、ファンは複雑な気持ちになった。
その日の午後、街の広場で小さな「奇跡」が起きた。
「助けて!」
一人の少女が泣きながら駆け込んできた。
「弟が井戸に落ちて、息をしていないの!」
ファンは急いで現場に向かった。井戸から引き上げられた幼い男の子は、確かに息をしていなかった。
「大丈夫だよ」
ファンが男の子の胸に前足を置いて、優しく歌いかけながら何度も強く押した。
「らーらーら〜♪ 目を覚まして〜♪」
なんと男の子が咳き込んで息を吹き返した。
「生きてる!息をしてる!」
少女が歓喜の声を上げた。
「星牙様が奇跡を起こした!」
「死者を蘇らせた!」
周りの人々が騒然となった。
井戸の事件はあっという間に街中に広まった。しかし、話が伝わるうちに内容が誇張されていく。
「星牙様が死者を蘇らせた」
「星牙様には神の力がある」
「星牙様は救世主だ」
「ちょっと待ってよ、心臓マッサージしただけだよ」
ファンが慌てて訂正しようとしたが、人々は聞く耳を持たなかった。
「謙遜なさることはありません」
「私たちは知っているのです」
「あなたは神様の使いです」
数日後、街の一角に小さな祠が建てられていた。
「これは何?」
ファンが驚いて見ていると、建設に関わった住民が説明した。
「星牙様を祀る神社です」
「神社?俺を?」
「はい。毎日お参りして、星牙様の加護を祈ります」
祠の中には、ファンを模した小さな木彫りの像が安置されていた。意外にも良く似ている。
「うーん...これって大丈夫なのかな」
ファンが心配していると、シルフィアがやってきた。
「ファンちゃん、大変です」
「何が?」
「街のあちこちに祠が建てられています。もう十数カ所も」
「十数カ所!?」
一週間後、ついに正式な宗教組織が設立された。
「星牙教設立式典」
大きな横断幕が街に掲げられ、数百人の信者が集まっていた。
「我々は、星牙様の教えを世界に広めます!」
教団の代表者マリアが演説していた。
「星牙様の愛と平和の心を、すべての人に伝えるのです!」
群衆から大きな拍手が起こった。
「愛と平和って...確かに俺は平和が好きだけど」
ファンが困惑していると、グロウが苦笑いしながら近づいてきた。
「星牙、お前も立派な宗教の教祖様になったな」
「教祖って言うな!」
星牙教の設立から一ヶ月で、信者の数は千人を超えた。しかも、犬国だけでなく近隣諸国からも巡礼者がやってくるようになった。
「星牙様に一目お会いしたくて、隣国から歩いてきました」
「星牙様の加護をいただきたいのです」
「どうか、私の願いを聞いてください」
毎日のように、様々な願いを持った人々がファンの前にやってきた。
「病気の母を治してください」
「商売が上手くいきますように」
「恋人と結ばれますように」
「みんな、俺はただの犬だよ」
ファンが説明しても、信者たちは聞き入れない。
「ご謙遜を」
「神様がそうおっしゃるのも、愛の表れです」
星牙教では、独自の儀式が発達していた。
「星牙様の歌声を聞く儀式」
毎日夕方に、ファンの歌を聞く集会が開かれる。ファンが歌うと、信者たちは涙を流して感動していた。
「触れ合いの儀式」
ファンに直接触ってもらう儀式。順番待ちの列が街の外まで続くこともあった。
「祈りの儀式」
ファンの木彫り像に向かって、様々な願い事をする儀式。
「なんか、本格的になってきたな...」
ファンは怖くなってきた。
星牙教の影響は国境を越えて広がり、各国の政府も無視できなくなってきた。
「陛下、ベルフォード王国から抗議が来ています」
ゲンクが困った顔で報告した。
「抗議?」
「星牙教の信者が増えすぎて、既存の宗教団体との間で摩擦が起きているそうです」
「そんな...」
ファンは頭を抱えた。平和を願っているのに、宗教対立を引き起こしてしまっている。
「グランディア帝国からは、逆に協力の申し出が来ています」
「協力?」
「星牙教を国教にしたいそうです」
「国教って...」
ファンはめまいがしてきた。
宗教的な人気に目をつけた商人たちも現れた。
「星牙様グッズ、いかがですか〜?」
街の角で、ファンの人形やお守り、絵画などが売られている。
「星牙様の毛を模した幸運のお守り!」
「星牙様の鳴き声が聞こえる魔法の貝殻!」
「星牙様と似た犬種のペット、特別価格で!」
「勝手に商売に使うなよ...」
ファンが苦情を言うと、商人は慌てて頭を下げた。
「申し訳ありません!でも、みんな星牙様の関連商品を欲しがるんです」
「需要があるのは分かるけど...」
星牙教の教義も、ファンの知らないうちに発達していた。
「星牙様の教え、第一条:すべての生き物を愛しなさい」
「第二条:種族の違いを超えて仲良くしなさい」
「第三条:争いよりも話し合いを選びなさい」
「第四条:困っている人を助けなさい」
「第五条:毎日星牙様に感謝の祈りを捧げなさい」
「うーん...内容は間違ってないけど、なんで宗教に……怖い」
ファンが困っていると、教団の代表者マリアがやってきた。
「星牙様、教義についてご意見をいただけませんか?」
「俺は別に教義なんて作った覚えはないけど...」
「でも、星牙様の行動を見て、私たちが学んだことです」
「そうか...」
確かに、ファンが実践してきたことを言葉にしただけかもしれない。
「星牙、どう思う?」
夜、仲間たちと相談していた。
「正直、戸惑ってるよ」
ファンが率直に答えた。
「みんなが俺を慕ってくれるのは嬉しいけど、神様扱いされるのは困る」
「でも、星牙の影響で平和になった人が多いのは事実だ」
グロウが客観的に分析した。
「宗教という形になっても、その本質は変わらないんじゃないか?」
「そうですね」
シルフィアも同意した。
「星牙教の教えは、基本的にファンちゃんの考えと同じです」
「でも、俺はただの犬なのに」
「ただの犬が、これだけの影響を与えられるわけがないだろう」
バハムートが言った。
「お前は特別な存在なんだ」
「分かった」
ファンが決意を固めた。
「宗教になるのは望んでなかったけど、みんなが幸せになるなら受け入れよう」
「星牙...」
「でも、条件がある」
ファンが真剣な表情で続けた。
「星牙教は、他の宗教と争ってはダメ。みんなで仲良くしなければならない」
「それから、俺を神様だと言うのもやめてほしい。俺はみんなと同じ、普通の存在だから」
仲間たちは感動していた。
「さすが星牙だ」
「その謙虚さが、みんなに愛される理由だな」
翌日、ファンは星牙教の信者たちに向けて演説した。
「みんな、聞いてください」
数千人の信者が静かに耳を傾けた。
「俺は神様じゃありません。みんなと同じ、この世界に生きる一匹の犬です」
「でも、みんなが幸せになってくれるなら、星牙教を応援します」
「ただし、他の宗教の人たちとも仲良くしてください。争いは俺が一番嫌いなことです」
信者たちは感動の涙を流していた。
「やはり星牙様は素晴らしい」
「こんなに謙虚な神様がいるでしょうか」
「ますます尊敬します」
ファンは苦笑いした。何を言っても神様扱いは変わらないらしい。
それから数ヶ月で、星牙教は大陸全体に広がった。各地で平和運動が起こり、種族間の争いが減少した。
「星牙教の影響で、世界が平和になってきましたね」
シルフィアが報告した。
「各国の紛争も、話し合いで解決される事例が増えています」
「それは良かった」
ファンは素直に喜んだ。
「みんなが幸せになるなら、星牙教も悪くないかもしれない」
しかし、ファンの心の奥では、いつも健太郎への想いがあった。
「健太郎、俺、こんな風になっちゃったよ。驚くだろうな」
夜空を見上げながら、ファンは愛する飼い主のことを思っていた。宗教の教祖になっても、その想いだけは変わらなかった。
星に向かって「ワン」と小さく鳴いて、ファンは明日への希望を胸に眠りについた。小さな犬の大きな愛が、今度は世界中の人々の心を動かし始めていた。