1話「散歩からの転落」
ファンは真っ暗闇の中を落ち続けていた。
どこまで落ちるのか分からない恐怖が、小さな心臓をバクバクと鼓動させた。
(うわあああああ!なんだこれは!?)
朝の陽射しが華蔵寺公園の木々を優しく照らしていた。まだ肌寒い春の空気の中、散歩コースの石畳を軽やかな足音が響く。
「ファン、そんなに急がなくていいよ」
飼い主の田中健太郎の声が後ろから聞こえた。リードの向こうで小さな体を弾ませているのは、茶色と白の毛色が美しいチワポメのミックス犬、ファンだった。大きなつぶらな瞳をきらきらと輝かせ、小さな尻尾をフリフリと振りながら、いつものお気に入りコースを進んでいく。
「わんっ!わんわん!」
ファンは振り返ると、健太郎を見上げて甘えるような鳴き声を上げた。その上目遣いがたまらなく可愛らしく、健太郎の顔が自然と綻んだ。
「はいはい、分かってるよ。あの桜の木のところまでね」
健太郎は苦笑いを浮かべながら、ファンのペースに合わせて歩を早めた。平日の朝とあって公園にはまだ人は少なく、鳥のさえずりと風で揺れる葉っぱの音だけが聞こえている。
ファンは健太郎の足音を確認すると、安心したように前を向いて歩き始めた。小さな体に似合わない堂々とした歩き方は、まるで自分がこの散歩コースの主人であるかのようだった。
(今日もいい天気だな。健太郎と一緒の散歩は最高だ)
ファンの心は軽やかだった。健太郎に拾われてから三年、毎日が幸せの連続だった。美味しいご飯に、暖かいベッド、そして何より健太郎の愛情。犬として生まれて本当に良かったと、ファンは心から思っていた。
「あ、ファン、ちょっと待って」
健太郎がポケットから携帯電話を取り出した。着信音が鳴っている。
「もしもし、田中です。あ、課長、おはようございます」
仕事の電話のようだった。健太郎は申し訳なさそうにファンを見下ろしながら電話に出た。ファンは理解を示すように小さく鳴いて、おとなしく待つことにした。
賢いファンは、健太郎が忙しい時は邪魔をしてはいけないことを知っていた。代わりに周りの景色を眺めることにする。咲き始めた桜のつぼみ、芝生に降りた朝露、遠くを飛ぶ鳥たち。全てが美しく見えた。
「はい、分かりました。すぐに確認して連絡します」
健太郎が電話を切った時、ファンは嬉しそうに尻尾を振った。
「ごめんね、ファン。仕事の話で」
「わん!」
ファンは気にしていないよ、という意味を込めて元気よく返事をした。健太郎はほっとしたように微笑んで、再びリードを握り直した。
「よし、桜の木まで行こうか」
二人と一匹は再び歩き始めた。健太郎の足取りも軽やかで、ファンも嬉しそうに小刻みに走る。いつもの平和な朝の風景だった。
しかし、その時だった。
地面が突然、不気味な音を立てた。
「ゴゴゴゴ...」
健太郎が足を止めた。ファンも不安そうに辺りを見回した。地震だろうか?でも揺れは感じない。音だけが地の底から響いてくる。
「なんだろう、この音...」
健太郎が眉をひそめた瞬間、ファンの足元の石畳にひび割れが走った。
「バキッ!」
鋭い音と共に、ファンの真下の地面が陥没し始めた。
「ファン!」
健太郎が慌ててリードを引っ張ったが、間に合わなかった。地面の裂け目はみるみる広がり、ファンの小さな体はあっという間に暗闇の中へと落ちていく。
「わんわんわん!」
ファンの鳴き声が遠ざかっていく。健太郎は必死に手を伸ばしたが、リードは途中で切れてしまった。
「ファーン!」
健太郎の絶叫が公園に響いた。しかし、裂け目は瞬く間に閉じてしまい、まるで何事もなかったかのように石畳が元通りになっている。ただ、切れたリードだけが虚しく健太郎の手に残っていた。
一方、ファンは真っ暗闇の中を落ち続けていた。
(うわあああああ!なんだこれは!?)
恐怖で頭が真っ白になった。風が体を打ちつけ、耳がキーンと鳴っている。どこまで落ちるのか分からない恐怖が、小さな心臓をバクバクと鼓動させた。
(健太郎!健太郎ー!)
心の中で飼い主の名前を叫んだ。しかし、どんなに鳴いても、健太郎の声は聞こえてこない。ただただ暗闇の中を落ち続けるだけだった。
時間の感覚がなくなっていた。数秒だったのか、数分だったのか。永遠にも感じられる落下の中で、ファンの意識は朦朧としてきた。
そして突然、下から光が見えた。
(あ、床が...!)
石でできた床が見えた瞬間、ファンは何かにぶつかった。
「うぐぅぅぅ!」
低く太い声が響いた。ファンとぶつかった何かが、痛そうに声を上げている。ファン自身も衝撃で意識が飛びそうになった。
「いった〜...なんだ急に上から...」
その声が聞こえた時、ファンの意識は闇の中に沈んでいった。健太郎の顔を思い浮かべながら、小さな体は石の床の上で動かなくなった。
辺りは静寂に包まれていた。
薄暗い石造りの空間に、小さな毛玉のような生き物が倒れている。その傍らには、大柄で筋骨隆々とした人影がうずくまっていた。
「痛てて...一体なにが降ってきたんだ?」
オーガの男が腰をさすりながら呟いた。そして、自分にぶつかってきた小さな生き物に気づく。
「なんだこれは...犬?こんな小さい犬、見たことないぞ」
オーガは興味深そうにファンを見つめた。茶色と白の美しい毛、小さな耳、ちょこんとした鼻。気を失っているとはいえ、その愛らしい姿に何故かドキドキしている自分に気づいた。
「このドキドキは一体...」
オーガは自分の胸に手を当てた。今まで感じたことのない不思議な感情だった。可愛いものを見た時の、守ってあげたくなる気持ち。それが分からずに混乱していた。
その時、ファンがゆっくりと目を開けた。
「う、ん...」
大きな瞳がゆっくりと開かれる。最初は焦点が定まらなかったが、だんだんとオーガの顔が見えてきた。
「あ...お前は...」
ファンとオーガの視線が合った瞬間、オーガの心臓は大きく跳ねた。その瞬間、まるで雷に撃たれたような衝撃が走った。
この愛らしい生き物の可愛さが、オーガの心を完全に撃ち抜いたのだった。