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ロスト・フィラデルフィア  作者: 礎衣 織姫
第二章 シーランの兄弟
9/36

03

 腹も心も満たされた兵士らは、残りの作業に従事した。「今日をしっかりしておけば明日が楽だ」という思いを胸に励んだ者もいる。個々の努力が実って、夜は二時間ほどで作業が完了した。

「よし! 完璧! よくやってくれた。今日はこれで引き上げるぞ。第一部隊三班! 先に行って、テント張ってくれ」

 サウスの指示が飛び、部隊は引き上げの準備に入った。第一部隊三班は、ひと足先にヘリポートへ向かう。

「あ、ちょっと、待ってよ!」

 不意にルークの声が聞こえて、シギルは上向きにふり返った。岩盤の上で作業をしていたルークがおりてくるのを認めた。彼はどうやら第一部隊三班のようだ。慌てつつも慎重にくだる。だが、あたりの暗さと焦りが判断を誤らせたようだ。彼は立ち入りを禁止されている場所へ降り立った。

 これを谷のほうから見ていたサウスが、とがめかけた。シギルの耳には同時にゴゴゴ……という地鳴りの音が。見上げると、小石がパラパラと転がっている。次の瞬間、岩盤向かって左側壁面にすさまじい勢いで亀裂が入った。シギルはとっさに叫んで地を蹴った。

「ルーク! 危ない!」

 シギルの声にハッとしたのが先か、突き飛ばされたのが先か——かろうじて安全圏にある道端に転がって半身を起こしたルークが目の当たりにしたのは、新たに六メートル四方の岩盤が、大量の土砂と一緒に崩れ落ちたあとの光景だ。

 周囲からは悲鳴があがり、谷のほうからはサウスが血相を変えて駆け登ってくる。

「シルバー!」

 ルークは真っ青になり、膝をガクガクと揺らした。サウスはそんなルークの襟首をつかんで立たせ、思いっきり頬を引っ叩いた。

「おまえはっ、俺の注意を聞いていなかったのか! ヘリポートへ行って救護班を呼べ! 早く!」

「は、はい」

 泣きそうな部下を叱咤した口調のまま、サウスは近辺にいる者をすばやく集めた。

「大至急、ラインビル伍長の救出にあたる。疲れているとは思うが、もうひと息がんばってくれ」

「イエス・サー!」


***


 ルークは前に転びそうになりながら、ヘリポートへと急いだ。そして先に引き上げてキャンプ設置の指導をしていたファウストの顔を見るなり、泣き出してしまった。

「どうしたんだ」

 ファウストは驚いて尋ねながらも、ルークの右頬が赤く腫れているのに気づいた。

「喧嘩でもしたか?」

 するとルークは、

「シ、シルバーがっ、俺を助けて岩盤の下敷きに」

 と嗚咽しながら答えた。

 ファウストは目を見開いた。刹那、左肩に痛みを感じた。痛みはすぐに失せたが、ついで、えもいわれぬ不安に襲われた。

「それで?」

「ウィビーン大佐が、は、早く救護班を呼べ、って言って」

 頬はサウスに打たれたのだろうと、ファウストは察した。

「わかった。おまえは現場へ戻れ」

「は、はい」

 ファウストは踵を返し、ヘリに向かって走った。通信機を取り、本部へ救護班を要請すると再びひるがえって、あたりの兵士をかき集め、現場へと急行した。


 救助活動はサウス指揮のもと始められていた。ファウストはサウスに寄って声をかけた。

「サウス、どうなってる?」

 ふり返ったサウスは眉をひそめた。一目瞭然のこんな場面で「どうなってる」とは、あまりにも彼らしくないと思ったのだ。

「動揺してんのか? そりゃ俺だってしてるけど」

「すまん」

「いや、おまえの部下だもんな。動揺して当たり前だ。申し訳ない。これは俺の不始末だ」

「……」

「とりあえず、あいだに入り込んでいる土砂をかき出している。ある程度までいったら端から岩を削る。それの繰り返しだな。手作業でないと無理そうだから時間は覚悟してくれ」

「救護班はウエスト・ラプウイングから来る。到着まで一時間かかる。状態によっては、ここから車で三十分のところにある救急センターに搬送したほうがいいだろう」

「ああ」

 ひととおり会話を終えると、二人は黙々と作業を進めた。無情にも雪は激しくなり、一日労働してきた兵士たちの身体に鞭を打つ。

 数十分。

 着けているだけで革手袋は役に立たない。ファウストは凍える手で土をかきながら、まるで墓土を掘り返しているような錯覚におちいった。たとえ一分で救出できたとしても生存の可能性は低い。それなのに、これほどの時をかけても見つけられずにいるのだ。不安よりも絶望が募る。

 再び胸がざわついた。

(こんな状況には嫌というほど出逢ったはずだ。もっとひどい現場にいたこともある。目の前で仲間を失うなんてことは軍人ならば多々あることだ。悼む気持ちを常にいだいては捨て、乗り越えねばならない悲しみを乗り越えてきた。しかし過去のどんな場面にもなかった苦しみが、ここにはある——なぜなんだ。息がつまる。心臓が張り裂けそうだ)

 おのれが当惑する意味も解せぬまま、ファウストはただただ、一心不乱に土砂をかき出した。

(ラインビル、頼む、生きていてくれ)

 すると突然のように、壁面と岩とのあいだに隙間が現れた。窮屈でも少年一人ならば、なんとか入っていられそうな空間だ。

 ファウストは、はやる気持ちをおさえられず、取りついて声を上げた。

「ラインビル! 返事をしろ!」

 直属の部下でも間接的な付き合いしかない。上司としても好かれていないようだし、優秀なだけに面倒もみる必要がなかった。ここまで不安を駆り立てられる理由はないはずだ。だが今朝、同じヘリに乗って来たばかりだ。ついさっきまで、となりに座っていた。そう思うと居ても立ってもいられなかった。


***


 暗く冷たく閉ざされたわずかな空間で、シギルはかすかな息をもらし、不意に意識を取り戻した。左肩に激痛が走る。

「うっ」

 あからさまに力を使うわけにはいかなかったが死ぬわけにもいかず、ルークを自力で突き飛ばしたあの隙に、岩の重量を落下しきる寸前、十分の一に軽減させ、すかさず壁面と岩のあいだに滑り込んだのだ。おかげで左肩をしたたか打った以外にケガはない。しかし、さすがに衝撃を受けて気を失っていたのだった。

(まいったな。ルークは大丈夫だったかな?)

 それから数十分を、シギルはじっと身動きせず耐えた。みんなが自分以上にがんばっているだろうと思うと、そのぐらいはなんでもなかった。


***


「ラインビル! 返事をしろ!」

 外気が流れ込んできたかと思うと同時にファウストの声が飛び込んできて、シギルはギョッとした。せっぱ詰まったような叫びに全身が震え、鳥肌が立った。彼が先陣を切って自分を呼ぶなんてことは、まったく想像していなかっただけに。しかも、シーランの兄弟という抗えない宿命が彼の血を騒がせているとしか思えない声で——

 めったに感情を表さないファウストが痛いほどせつなく叫号するのを見た者は、憂えるべき状況を忘れて驚いた。サウスですらそうであったから、これはもう一種の事件だ。

 シギルは恐る恐る唇を動かした。

「俺は大丈夫です」

 シギルの声を確認したファウストは、三日口にしなかった水を飲み干したような安堵に満たされた。

「神よ、感謝します」

 と小さくつぶやく。

 極度の緊張から解かれた彼の深い吐息は岩壁に反響して、シギルにまで伝わった。シギルはそれだけで、ファウストがどれほどの想いでいたのか理解できた。

 その後方ではサウスが満面の笑みを浮かべながら、大声で「ラインビルは無事だ!」と仲間達に告げている。歓声が上がった。

「やったぞ! すげえ!」

「なんて運のいい奴だ! まったく」

 この吉報を誰より喜んだのはルークだ。彼はその場にへたりこみ、また泣いてしまった。近くの者が彼を起こして慰める。

「良かったな」

 そしてシギルの生還を心から喜ぶ人々の声に交じって、またファウストの声が近く響いた。

「すぐに出してやる。がんばれよ」

 聞いたこともない優しい声に、シギルは強く目をつむった。泣きそうだった。

(——兄さんは気づいていない。だけど本能で知っている。魂が、俺を弟だと知っているんだ)

 過去、ラウ・コード博士が学者らしくない話をしていたのを思い出す。

『シーランの兄弟は、分けるべきではない一個体の魂を分かって生まれたと思えるほど、心身に密接な関わりを持って生きる。それは〝絆〟とひと言で片付けるには強すぎるものだ。私の新しい仮説では、一般に言われている彼らの〝失う恐怖〟とは、単純に肉体における物質的な喪失の恐れではなく、同じ次元にあるべき魂の別離にともなう精神性の痛み、または欠落し、不安定になることへの恐れと解釈している。そういう考えに基づくと〝得る喜び〟についても説明ができるようになる。つまり、得れば魂が安定するのだ。それは幸福ではないかね? あの世にいる期間とこの世にある期間が同時進行であればあるほど長い安定が得られ〝良い〟ということになる。そのことが、たまたま〝兄弟愛〟という形式をとって表れているのだよ。死に別れる恐怖に勝ち得る喜びとはなにかを追求していくと、これが最も有力な説となりはしないかね?』

 仮説はおそらく正しいのではないだろうか、とシギルは思う。でなければ、どうして自分が弟であることを知らないファウストが、空軍大佐の顔でもグラウコスの鷹でもない素の声で、外聞もなく叫ぶことができたろう。

(だけど言えない。弟だなんて言えない。俺は兄さんの〝不幸〟でしかないんだ。言えるわけがない)

 常々感じていたことではあるが、シギルはこの時ほど切実に生まれたことを後悔したことはなかった。

(博士、俺はどうしたらいいんだ。わからないよ。教えてくれ。昔のように心配はいらないと肩を叩いてくれ)


***


 生存が確認されてから、およそ二十分。シギルはようやく隙間から引きずり出された。その彼があまりにもあっけなく立ち上がったのを見て、周囲はしきりに驚き呆れ、また喜んだ。

「こいつっ、心配したぞ!」

 と、いきなりサウスが抱きしめる。ちょうど腕が左肩を押さえたので、シギルは思わず声を上げた。

「いっ、痛い痛い! さすがに無傷じゃないんです! 離してください!」

「わっ!」

 サウスは解放して真剣に謝った。

「すまん! どこをケガした?」

「左肩。打っただけですが」

「左肩?」

 不意にファウストが眉をひそめた。事故の報告を受けたとき、自分の左肩に痛みが走ったのを思い出したのだ。

「どうかしたのか?」

 とはサウスがファウストに聞いた。ファウストはやや慌てたように目を伏せた。

「いや、なんでも」

 しかし、なんらかの含みを持つファウストの表情をシギルは見逃さなかった。ささいなことでも弟だと知れる可能性があるのに、この事故は大きなミステイクだった。おそらく兄の身に変調があったに違いないと、彼は想像を絶する強い結びつきに(おそ)れをなした。意志の力だけでは太刀打ちできない何かを感じたのだ。

「救護班が到着しているはずだ。ヘリポートへ引き上げよう。歩けるか?」

 懐中時計を見てサウスが言い、シギルはゆっくりうなずいた。そして歩き出しながら謝った。

「すみません。救護班、呼んだんですね」

 サウスは「は?」と険しく目元をしかめた。

「あたりまえだろう。大事故だ」

「でも、結局たいしたことなかったのに」

「んなこと関係あるか。無駄足になって良かったぜ。救護班もホッとするだろうよ」


 救護班にはドクター・マーロウ氏(五十二歳)が同行していた。軍医歴が長く、腕が最も確かな医師だ。白髪まじりの黒髪に茶色い目の、痩せた小柄な男である。

 テントの中にストーブを入れた臨時の診療所が設けられた。そこでシギルは上半身裸になって診察を受けた。

「全治二週間。不便だとは思うが、私がいいと言うまで腕をあげたりしてはいけないよ。もっとも、あげようと思ってもあがらないだろうけどね」

 シギルは自分で考えていたより重い診断だったので、訝しげに医師を見据えた。

「そんなにヒドイですか?」

「ひどいね。打ち身による鬱血の範囲が広いし、おそらく骨にヒビが入っているだろう。よくもまあ骨折にまで至らなかったものだ。気絶しただろう?」

「うっ、はい」

「念のため脳の検査もしたほうがいいね。すぐに病院へ行こう」

「えっ、今から?」

「もちろんだ。なにかあっては手遅れになる。もともと疲労していた身体にこれだけの打撃を受けたんだ。めだった外傷が肩だけだからと安心してはいけないよ。目には見えないダメージだってあるはずだ。明日の昼頃まで検査入院してもらう。場合によっては二〜三日の入院も必要だ」

「……」

 ドクター・マーロウは黙り込んだ少年をチラリと見やった。

「何故そんなに嫌そうな顔をするのかね」

 シギルは焦ってうつむいた。「段階系が判別されてしまうような検査はないだろうけど、もしあったら困る」という一抹の不安が、そうさせたのだ。特に血液型検査は。

「あのね、命があっただけでも拾いものだよ? 釘を刺しておくけどね、入院にならなくても完治するまで絶対安静だ。わかったね?」

「はい」

 シギルはしぶしぶ返事をし、付き添いの看護師に手を借りて制服を着た。そして医師とテントを出ると、心配そうな多くの視線にさらされた。

「どうなんだ?」

 とサウスが代表して尋ね、シギルは申し訳なさそうに答えた。

「すみません。これから検査入院です。あと二週間は絶対安静だそうです」

「ええっ!?」

 サウスも意想外だったようだ。それほどシギルはピンピンして見えた。サウスとその横にいたファウストの目が自分に向いたのを確認した医師は、シギルにヘリへ搭乗するように言って追い払うと、二人の大佐と対面した。

「久しぶりだね、ファウスト君、サウス君。元気そうでなによりだ」

「先生もお元気そうで」

「いやなに。ところで彼は、どちらの部下かな?」

「俺です」

 とファウストが軽く手をあげた。医師は「ほほお」と感心したように顎をなでた。そして「苦労するぞ」とズバリ言った。

「実にガマン強い少年だ。あんなのでは医師の私も苦労する」

 どう反応していいのか戸惑っているファウストに代わって、サウスが肩をすくめた。

「なにが言いたいんだよ、ドクター」

 医師は「ほっほっ」と笑った。

「なんでもなさそうにしているが、あの肩はそうとう痛むはずだ。おそらく立っているのもツライくらいにな」

 ファウストとサウスは不意に目を合わせた。互いに半信半疑な表情だ。

 それを見た医師は更に諭した。

「仲間を助けたそうだが、きっとその者に気をつかっているのだろう。しかし、もっと身体の痛みに正直な反応を示してもらわねば処置に迷ってしまう。彼になにかあった時は、見た目の十倍はひどい状態だと思ったほうがいいだろうね」

 二人はしばし呆気にとられた。サウスは特にそうだが、二人とも察しのよい人間だ。軍人としてもベテランで、同僚や部下の動向を観察するのは得意なのだ。誰がなにをガマンしているかくらい見通せる。ところが「ラインビル伍長」についてはチラリとも見抜けなかったのである。

「病院まで付き添って行ってもいいか?」

 と、ファウストは医師とサウスとに向けて言った。「優秀という先入観から、あまりにも放ったらかしすぎた。上司としてこんなことでは良くない」と反省してのことだった。彼らはその心情をくみ取り、快く賛成した。

「こっちは任せておけ」

「悪いが頼む」

 ファウストは医師とともにヘリへ向かった。救護班を移送してきたヘリは五人乗りで、行きの搭乗者は操縦士と医師、看護師一人の三人だけだったので、シギルとファウストが乗り込んで丁度いい。

 機内に入ると、シギルは打って変わって具合悪そうに後部座席に腰かけていた。医師の言うことは間違いないようだと、ファウストは近寄って声をかけた。

「大丈夫か?」

 シギルはわずかに目を開き、右手で顔を覆って息を吐いた。

「麻酔があると、ありがたいです」

 続いて乗り込みながら聞き耳を立てたマーロウ医師が、医療バッグに手をかけた。

「早く言いたまえ」

 医師はさっそくシギルの肩に麻酔を打った。

「すぐに効く。眠たくなったら素直に寝なさい」

「はい」

 ヘリが飛び立った。操縦士の横に医師が座り、シギルは看護師とファウストにはさまれる形で後部座席に身を預けた。ファウストがどういう経緯で同行しているのか判明せず、しばらく困惑していたシギルだが、やがて眠気に襲われると医師の言葉にしたがって目を閉じた。

 無意識にファウストのほうへもたれる。おぼえていないはずだが、とても懐かしい匂いがした。

 懐かしさを感じたのはファウストも同じだった。しかし彼は「もしかしたら」と考えていた。サウスがやたらと「似ている」と連呼するので、「自分はもしかしたらラインビルに弟の面影を重ねて見ているのかも知れない」と。それならば、少年が生き埋めになっていたあいだの異常な不安も説明がつく。

 ファウストは一人うなずいた。

(きっと、そうに違いない)

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