06
*神影をご覧になっていない方には少々わかりにくい内容となっております。次話で少し説明が入る予定です。
シギルはサイコキネシスを利用しながら、風がよけられそうな岩陰へとファウストを連れて行った。
その際、一歩一歩が重いことに気づいた。靴底で鳴る砂の音さえ絵空事のように聞こえる。シギル・ロスレインとして生きたこの魂の思い出は、耳を塞ぐ強い風と、肌を打つ砂の中で終焉するのだと、信じて疑えないほどだ。
シギルは初めて、自分が考えるより疲れているのだと自覚した。そして岩陰へとたどり着いたとたん膝から力が抜け、立っていられないほどの疲労感に襲われたのである。
突然倒れたシギルを、ファウストは慌てて抱き起こした。
「シギル! しっかりしろ!」
シギルは唇をかすかに動かした。話をしに来たというのに、声はのどの奥でかき消える。つい先刻までまともに出せていたのにと、シギルは困惑した。だがつらつら考えるうち、ブレッドの治癒能力に思いが至った。そばにいて影響を受けていたために平気だったのではないだろうか、と。
「シギル!」
懸命に名を呼ぶファウストに答えてやることもできないまま、シギルは重いまぶたを閉じた。睡魔にあらがえなかったのだ。
集中力を高め、きわめて慎重に繰り返してきた作業は、尋常ならぬ緊張をシギルに強いていた。神経をすり切らせ、身体を酷使し、生きるという信念さえも、心から奪っていたのである。
ファウストは、ぐったりとなったシギルを抱きかかえ、サウスが待機している場所まで行った。サウスは慌てて乗降口を開き、手を貸してシギルを中へ寝かせた。
「おい! 大丈夫なのか!?」
「わからん。とりあえず退去だ。軍医に診せよう」
「おう!」
サウスは運転席に戻ってハンドルを握り、前を向いた。そこで、硬直した。テレビや新聞で何度か見た顔が、装甲車の前方に立ちはだかったからだ。
「ジ……ジアノス・マートン」
サウスの呟きに、ファウストは驚いて顔を上げた。そこには、もの凄い形相で装甲車を睨む男がいる。ひどくやつれているが、紛れもなくジアノス・マートンだ。
表情には強烈にゆがんだ感情がにじみ出ている。そのため四十五という年齢より老けて見えるが、真人間であれば見た目は悪くない。現にそれで大統領選挙を勝ち抜いて来た男だ。が、さすがに演説をしていた頃に見られた華やかさはない。
雌黄色の髪は乱れ、菖蒲色の目は充血している。着ているスーツもあちこち擦り切れ、壮絶な逃亡生活をうかがわせる。しかしこの強風の中、ふらつきもせず立っているのは普通ではない。なにか人ならざるものを感じさせた。
「セフィラを渡せ……」
ジアノスの声は静かだが、妙にはっきりと聞こえた。
「核なんだろう? セフィラを渡せ」
ファウストもサウスも、ジアノスが何を言っているのか分からなかった。ただシギルを渡せと訴えていることは間違いないので、聞く耳など持つつもりはなかった。
「死にたくなかったら、そこをどけ」
サウスはスピーカー越しに忠告した。しかしジアノスは、クッと嘲るように口の端を上げた。
「死ぬのは貴様らだ。核が死ねばすべてが死に絶える。なにもかも消えてしまえばいい。こんな星になんの価値がある」
「てめえ、ひき殺されてえのか?」
「私は貴様らに殺されるような器ではない。天位は失っても、生来からある力までは失っていないのだからな」
「……は? ワケわかんねえこと言ってんじゃねえよ」
「フン。無知で無能な地球人よ。パレスアラウンドの宣教師と呼ばれ、この世で初めて天位一位を授かった私の実力を思い知るがいい」
そう言うと、ジアノスの右拳に禍々しい光が現れた。黒く淀み、空間をねじ曲げているように見える。
ファウストとサウスは、背筋を凍りつかせた。セフィラのようなサイキッカーがいるかと思えば、ブレッドのように何もかも超越した男がいる世の中だ。ジアノスが人間でないとしても不思議はない。二人は一瞬だけ覚悟を決めた。しかし、
「貴様のいいようにはさせんぞ、カーンデル」
という声とともに現れ、あいだに割って入った人物がいた。ブレッドだ。緊張が途切れたファウストとサウスは、止めていた息を同時に吐いた。それから二人の会話に耳を澄ませた。とうてい理解できる内容ではなかったが——
ブレッドにカーンデルと呼ばれたジアノスは、目を剥いた。
「……界王。あなたは私を見るべきだ。こんな奴らのために痛みを請け負う必要などない」
「俺はすべてをありのままに見ている。むろん、おまえのことも見てきた。サルビアの民を殺し、再挧真を殺し、ここでもベストラとスカイフィールズに罪を犯させ、人々を苦しめた。それが真実だ。俺はおまえの魂を永遠に閉じる」
「閉じる!? 閉じるだと! この私を抹消すると言うのか!」
「俺は何度も更生の機会を与えた。おまえがかつての心を取り戻し、真人間になることを願っていた。それを無視し続けた代償は大きい」
「天使を蘇生するかたわらで、私を地獄へ送った。あなたは私より、あの天使を愛していたのだ。私より、サルビアの民と地球人が大切なのだ」
「俺の愛は万物に対して等しく注がれている。救いの形が違うだけだ。それを理解せず、おまえは欲と嫉妬で目を覆い、野心と傲慢さで心を塞ぎ、あげく悪魔に魂を売った。見ろ、自分の足もとを。おまえの腐肉を狙って餓鬼どもがうろついている。一度は天位を得た宣教師が、なんというザマだ」
ジアノスは驚いたようすで足もとを見、ついでブレッドを見上げた。両眼に神秘の青を持つ漆黒の髪の男——それを、まじまじと眺める顔は真剣だ。
「あなたは左か。右と本体はどこだ」
「右は始点界。本体は天上界にある」
「私の最期だというのに、完全体ではないのか」
「おまえはそれほどに俺を悲しませたのだ。もういいだろう」
ブレッドが腕を前に伸ばすと、手の先から銀色の鳳凰が飛び出した。独特の紋様にブレッドの両眼と同じ色を持つ、美しい鳳凰である。
ジアノスは観念したように肩を落とした。世界が閉ざされる時にしか現れないという鳳凰を目にして逃れられる者はいない、と知っているからだ。
「私はただ、あなたに愛されたかった。私以外のものになど、目を向けてほしくなかったのだ」
対してブレッドは、深く溜め息ついた。
「小我だな。愛とは無償でなければならない。それは与えるものであり、与えられるものではない。おまえも神であった頃は、当たり前に理解していたはずだ」
ジアノスはふっと笑みを浮かべた。遠い昔を懐かしむような、寂しげな笑みだ。しかし、吐き出す台詞はゆがんでいた。
「無償の愛などなんの意味もない。初めてあなたを見た時、私はそれまでのすべてを捨てた。愛も、誇りも、名誉も……あの瞬間に価値を失い、枯れて滅び去ったのだ」
ブレッドは軽くうつむき、目をそらせた。それについては何度も誤りだと諭してきたが、結局この男には理解されなかったのだ。そして今も、同じことの繰り返しである。これ以上の問答は虚しいだけだった。
ブレッドはそらせた視線を戻し、おもむろに告げた。
「俺は終わり。世の終点。俺は死。生きとし生ける者の死。俺は流転の最後。すべてを閉じて消し去る者。俺は界王の半身。左を司る終焉の象徴。俺の名は飛鳥泰明。その名のもとにカーンデルの魂を抹消する者」
すると、ジアノスの身体は一瞬にして消えた。血を流すわけでもなく、霧散するわけでもなく、はじめから存在していなかったかのごとく、消え失せたのである。
ファウストとサウスは唖然とした。事態をまったく受け入れられなかったのだ。だがブレッドはそれ以上なにも語ることはなく、風の薙いだ空を仰いだ。