02
青い封筒におさめられていた書類は、『数億万分の一のナノクロスと覚醒に関わる可能性の割合』と題されたレポートと、名前を記され、横線で消去されたものが数行ならぶ名簿だった。
ロイスは書類を凝視する兄弟に語った。
「ナノクロスがセフィラ遺伝子を覚醒させるのに必要なものだというのは承知のことと思うが、これはその覚醒に至る可能性をラウ・コードが算出したレポートだ。それによると、たとえ数億万分の一のシーランを見つけ、ナノクロスに働きかけてセフィラを覚醒させようとしても、成功の確率はゼロとある。ゼロだ。これがどういう意味を示しているか、わかるね?」
ファウストは書類から目をはずし、ロイスを睨んだ。
「シギルの存在はありえないと?」
「そう、ありえない。ところがシギルは例外だった」
「……」
「名簿を見たまえ。そこにはナノクロスを持って生まれたシーランの名が記載されている。みな第一子だ。しかし弟妹が誕生すると線を引かれ削除されている。そう、君たちの名前以外は」
ファウストとシギルは、自分たちの名で行が終わっている名簿に目を通した。年代が違う九組の兄弟姉妹の名前があり、内八組は削除されている。
「彼らが名前を削除されたのは、弟もしくは妹にナノクロスが確認されなかったからだ。博士が、今後セフィラが現れる可能性はないと断言したのを覚えているかね? レポートに戻ろう。そこには、たったひとつの可能性が示唆されている。百パーセント覚醒する確実な条件——それは兄弟でナノクロスを持っていること」
二人は青ざめた。酷なことだと思いつつ、ロイスは腹をくくって言った。
「ナノクロスを持つこと、それ自体が奇跡だ。まして兄弟で持つとなると……一卵性双生児でも前例がない。博士が今後現れないと言えたのは、そのためだ。そしてナノクロスが保有されるのは生後五年未満。君たちのことが確認された時、大佐はすでに五歳だった。したがって、セフィラ覚醒の対象となるシギルだけが——はじめからスカイフィールズは狙っていたのだ。病院からDNA情報を不法に入手し、兄弟でナノクロスを持つ者が現れるのを待っていた。あのテロ事件、すべてはシギルを誘拐するために企てたものだったのだ」
あの日の不幸の真実が白日の下にさらされて、書類を持つファウストの手が怒りに震えた。
「どうやって病院から? 軍立以外の病院は、全面的に政府の監視下に置かれている。簡単に個人情報を得ることはできない」
ファウストの疑問に、ロイスは首をふった。
「スカイフィールズは大統領と通じている」
ファウストもシギルも、衝撃的な事実に唖然とした。一瞬ロイスがなにを言ったのか理解できないほどに。
「二人は結託し、共謀してシギルを誘拐したのだ。この世の脅威を手に入れるために人民をだまし、軍をもあざむき利用して、世界征服しようともくろんでいるのだ。その証拠はここにある」
ロイスは同封されていたメモリーカードを取り出して見せた。
「直筆の電子サインが入った大統領とスカイフィールズの契約文書、それに対談の様子を記録した動画がおさめられている。このメモリーカードはスカイフィールズのものだ。見覚えがある。奴がこんなものを残したのは、おそらく大統領の裏切りを抑止するためだろう」
「それを」
と、ずっと沈黙していたシギルが唐突に聞こえる口調で言った。
「それを博士は、どうやって手に入れたのかな?」
ロイスはぐっと肩を力ませた。
「命がけ、といったところだろうね」
「……」
「シギル、君にこんなことを言いたくはないが、博士のことは覚悟しておいたほうがいい。もちろんまだ希望はある。しかし」
ロイスは顔をそむけ、うつむいて唇を震わせた。数秒の静寂が漂い、シギルはロイスの言いしめすところを察して、不安な気持ちを誤摩化すように引きつった笑みを浮かべた。
「まさかそんなこと。大丈夫だろ? 博士はまだスカイフィールズにとっても必要だろ?」
「だといいが。もし私がスカイフィールズなら、絶対に生かしてはおかないだろう。君を逃したことだけでも逆鱗に触れただろうに、これ以上、内側から妨害されてはかなわんからな。もちろん今の段階でハッキリしたことは言えん。あくまでも憶測だ。ただ、これから先そういうことが起こらないともかぎらない。君には今のうちに心の準備をしておいてもらいたい。つらいだろうが」
シギルはショックの色を隠しきれない様子だった。ファウストは黙ってシギルの肩に手を置いた。非常な境遇にある弟を自分が支えてやりたい、という意思の表れだろう。シギルはファウストの想いを受け止め、どうにか気を落ち着かせた。
一時間あまり。行き詰まった状況を打破すべくシギルのベッドをはさむようにして三人は膝をつき合わせ、思案に暮れた。しかし多くの組織を相手に、三人寄ったところで文殊の知恵など授かりようがない。
ファウストは肩で大きく息をついた。
「やはりブレッド・カーマルに相談しよう」
ロイスは厳しい顔をした。
「総帥に? 万が一にも連中に通じていたりしたら、どうするのかね」
ファウストはゆっくりとロイスを見据えた。ロイスの発言は、ただ将軍を疑うというより侮辱したものと受け取れた。
「彼がそんなくだらない人間であるはずがない」
ファウストが抱くブレッド・カーマル像はあくまでも英雄なのだ。軍人として忠誠も誓ってきた。一片の疑いがあるにせよ、セフィラであるシギルが警戒をして言うのならわかる。だがロイスごときに言われるのは心外だった。
ロイスは、おのれの正当性とは関係なく身を細めた。どんな任務も完璧にこなし、狙った獲物は確実に仕留めてきたというファウストに睨まれては、いかなる偉丈夫だろうと肝を冷やすというものだ。
「前言撤回しろ」
「なぜ違うと断言できるのですか」
ロイスは脅えながらも問いかけた。ファウストは無表情に唇を動かした。
「グラスゲート・チルドレンの王だからだ」
落ち着いた声で発せられた答えに、ロイスは戦々恐々とした。
「グ、グラスゲート・チルドレンの? ブレッド・カーマルが!?」
「そうだ。だからこそ、あの若さで総帥なんかやってるんだ」
ロイスは顔中に汗をかいて絶句した。シギルは一人キョトンとしている。
「なに? グラスゲート・チルドレンって」
少年の疑問にはファウストが答えた。
「かつて世界中に根を張り恐れられていたマフィア、ベストラ・ファミリーを壊滅させた、孤児による孤児のための孤児だけで形成された組織だ。一小隊ほどの規模だが、敵地に乗り込んだのはその内のわずか十五人。まさか女の子や幼年を連れて行くわけにはいかないからな。その時のリーダーがブレッド。当時十一歳だ」
「……」
「今のおまえよりずっと幼いが、荒廃したグラスゲートに暮らす子供らのために立ち上がった英雄だ。軍も政府も手を出せないでいた悪の巣窟に乗り込んで一掃してのけた。彼の信念は、おまえの力をもってしても曲げられたりしないだろう」
シギルはうつむき、顔を上げ、またうつむいて顔を上げた。
「兄さんがそこまで言うなら、俺も強く反対できない。だけど」
「だけど?」
「憂鬱だな」
「なにが?」
「俺、ピスマイヤーでグラウコスに大損害与えてるだろ? いくら欲がないって言っても、あれはさすがに怒ってるんじゃないかな?」
ファウストは沈痛な面持ちで、左手の平に額を置いた。
「ああ、そんなこともあったな。しかし人身の被害はなかった。たぶん怒ってはいない」
「だといいけど」
そのわきで、ファウストの反論怖さに口をつぐんだロイスは、わき起こる猜疑心を押し隠していた。
(ブレッド・カーマルは、知れば知るほど分からん男だ。真実に正義漢だとしても潔癖すぎる。聖人でもそこまで完成された精神など持ち合わせてはおるまい。この世に百パーセント善人などいない。いるとすれば、それは神か神に近い存在だろう。ありえない。なにか裏があるとしか思えん)