05
(——シギル、おまえはもうこの世にいないのか。だったら俺も生きることを諦めていいか。これ以上は耐えられない。耐えられないんだ。もう限界だ)
ファウストはブレットの励ましにすがって希望を抱き続けてきたが、ここへ来て挫折した。生きていればシギルももう十七歳。兄の存在を知らなければ兄弟のないシーランとして苦悩の日々を送っているはずだが、どこを探してもそのようなシーランの少年はいない。それが、失ったことを認めたくないあまりに目をそらしてきた事実だった。絶望を確信できるほど時間は過ぎてしまったのだ。
ヘリに搭乗して四十分が経過した。医師は患者の容態を気にしてふり返った。
「ラインビル君の様子はどうかね?」
「寝ています」
とファウストが答える。医師は「それでいい」と相槌を打ち、ふと寄り添うように座っている二人を見て、冗談のように言ってみた。
「君たちは、そうしていると兄弟のようだ」
ファウストは苦笑した。
「サウスからもよく言われます」
そう受け答えつつ、胸の内では「ニセモノだ」と反論した。「どんなに兄弟のように見えたところで本物じゃない。面影や雰囲気など無意味だ。そんなことを言ってくる連中もウンザリだ」と。
しかしファウストの闇が見えない医師は、彼にはまだ余裕があると取ってしまい、顔をほころばせた。
「そうかね。はっはっは」
すると医師の笑い声に反応したのか、やおら目覚めたシギルがボーッとした眼差しで眉をひそめた。麻酔が効いているので、起きているようでも半覚醒状態であることを医師は知っていたが、おもしろがって声をかけてみた。
「気分はどうかね?」
返答しないシギルに代わって、ファウストが小首をかしげた。
「話しかけたりして大丈夫ですか?」
医師はニッと口の端を上げた。
「君は部下のことをよく知りたいから、ついて来たのだろう。彼はいま一種の催眠状態だ。本心を聞くにはいい機会だよ」
「だましているみたいで気が引ける」
「しかし正気の時は、絶対に聞けないよ?」
ファウストが黙り込んだので、医師は再度シギルに話しかけた。
「君たちが兄弟に見えると言っていたところだよ。よく似ているね」
するとシギルは不服そうな表情を浮かべて、ろれつが回らないながらもハッキリと言った。
「似てる? あたりまえだよ、兄弟、なんだから——」
予想もしなかった言葉に医師は驚き、顔を凍りつかせるファウストを見て固まった。
医師はファウストのことを入隊した当時からよく知っている。シーランであることも、幼くして弟を失っていることも。
「忘れろとは言わないが希望を持ち続けろとは言えない。誰でも別れの時は来る。君たちはそれが早すぎただけだ。もう潮時なのではないかね。いつまでも哀しみを引きずっていては浮かばれないよ」
と、以前から説得していたほどに。状況からいって、彼の弟が生きているとは思えなかったからだ。
「結婚し、家庭を持つのもいい。弟の代わりと思えるような存在を作るのもいい。いつか時が心を癒すだろう」
とも言った。しかし……少年のセンセーショナルな発言が、このごろ少し穏やかになってきたファウストの心を掻き乱してしまった。ドクター・マーロウは自責の念に捕われた。ファウストはまだダメだったのだ。どんなに仲間に恵まれ恋人ができようと、弟を諦めることなどできなかったのだ。してはいけない見誤りだったと後悔した。だがしてしまったものは仕方ない。
「兄弟? 兄弟なのかね?」
医師は慎重に尋ねた。
「君の名前はシルバー・クラウズ・ラインビルだろ?」
「なまえ?」
「そう、名前だ。君の名前は?」
「俺の、名前——は、シギル、シギル・ロスレイン」
決して「ラインビル」が知らないはずの弟の名前。ファウストは、なにか総毛立つような強い想いに打ちのめされた。出逢ってまだ二年に満たない歳月とはいえ、あまりよく見ていなかったせいで、少年に関する記憶は少ない。そのことだけでも裏切られたような、くやしい想いが渦巻くというのに——挫折して死を覚悟したばかりだ。「ラインビル」と兄弟のように見られることを嫌悪したばかりだ、と。
ファウストの心はかつてないほど荒れた。
「本当なのか?」
絞り出すようにして問うた声はかすれた。だがシギルの意識は朦朧としすぎていて、もう質問に答える力はないようだった。
「博士に会いたい」
頬に少量の涙を伝わせ、彼は再び眠りに落ちた。ファウストはショックと動揺とで取り乱した。
「いったい、なにがどうなってるんだ!」
「ファウスト君、落ち着いて!」
医師が声を上げた。
「いいかね、今聞いたことは、ここにいる四人の心の中にとどめるんだ。本人から真相を聞くまで、絶対に口外してはならん」
「どうして」とファウストが突っかかる間もなく、医師はたたみかけた。
「医師として、いや人生の先輩としての勘というやつだよ。考えてもみたまえ。彼の言葉が正しいのなら彼はシーランだ。シーランが自分の素性や兄弟の存在を知りながら他人になりすまして生きているのだとしたら、ただごとじゃない。大事に巻き込まれたくないのなら忘れるのがベストだ。もっとも、君には無理だろうな、ファウスト君」
「ドクター」
「君が望むなら、病院に着き次第、血液検査しても構わんよ」
ファウストは息をのんだ。肩に寄りかかるシギルの顔を見つめ、また医師の目を見る。意を決する光がその瞳に宿った。
「よろしくお願いします」
***
まったくそんなことなど記憶にないシギルは、病院のベッドで目覚めた。朝のさわやかな日差しが窓越しに差してくる。病室は個室のようだ。ほかに人の気配はない。
軍立病院はグラウコスとタートルダヴを結んだ中間地点のウエスト・ラプウイングという場所に建っている。のどかな田園地帯だ。秋には麦がたわわに実り、穂が一帯を黄金色に染める。美しい土地だ。
シギルは白い天井を眺め、二〜三回またたいた。
(どれくらい眠っていたのかな?)
と、身を起こそうとして動いてみたが、肩の激痛によって再びベッドに引き戻された。
「ああ、くそっ、いって」
そこへ病室の戸が開いて、シギルは寝たまま顔を向けた。
「……!」
ファウストだった。
シギルは驚いたあと意外そうな表情を浮かべたが、ファウストはそんなことなど構わず、そばに寄ってベッドの右脇に腰かけた。
「気分はどうだ?」
なんとなく怒っているような雰囲気を察して、シギルは緊張した。しかし、
「起き上がれません」
と不調を訴えると、ファウストはとたんに心配そうな顔をして目を泳がせ、シギルの額から耳のあたりにかけて、何度か優しくなでた。そんなファウストの行動を不審に思わないわけはない。シギルは恐れに揺れる心をおさえつつ、目を合わせた。すると、
「俺のことを知っていたのか? いつから? 何故なにも言ってくれないんだ。どうして避けようとする」
と、いくつもの質問をしてきた。シギルの目の前は真っ暗になった。明らかに兄弟だという確信を得た台詞。いったいどうしてなのか、こっちが聞きたいくらいだと。だが聞くまでもなくファウストが答えた。
「憶えていないのか? 自分から兄弟だと言ったことを——無理もないか。意識はハッキリしていなかったからな」
「あ……」
とこぼしたきり、シギルは絶句した。
「血液検査を——させてもらった」
「……」
「ここまで来て黙っておく手はないだろう。お願いだ、なにか言ってくれ」
シギルは奥歯をかんで深い後悔の念とともに、にがい想いを口の中に満たした。涙は勝手に溢れた。
黙したまま泣き出したシギルに、「責めているわけじゃないんだ。でもそう思ったのなら許してくれ」と、ファウストは言った。そんな気遣いが、シギルには余計つらかった。
「入隊するまで、どこでなにをしていた。ラインビルというのは養父母なんだろ? 孤児になってからはどうしていたんだ」
ファウストは途切れることなく質問をかぶせるが、シギルは答えられなかった。IDの中身に本当のことなど、ひとつとしてないからだ。
「聞いたってロクなことはない。俺のことは死んだと思って諦めてくれ」
シギルは渾身の力をふり絞って、やっとそれだけのことを言った。納得してもらえるはずがないと分かっていても、それしか言えないのだ。
ファウストは声を荒げた。
「生きて、ここにいるのに諦めろ? バカなことを言わないでくれ! 俺が今までどんな想いで捜していたと思ってるんだ。この十七年、死んでいたのは俺だ。おまえを失ってから、ずっと地獄だった」
「現実はもっと地獄だよ。俺の立場は最悪だ。グラウコスに来たのだって、そうしなきゃヤバかったからだ」
ファウストは眉をひそめ、寂しそうにうつむいた。
「俺がいたからとは言ってくれないんだな。どう最悪なんだ? 言ってくれ。力になりたい」
シギルは口を強く噛んで目をそらした。
「無理だよ。そんなに簡単じゃないんだ。誰かが力になれるほど甘くない」
「俺をバカにしてるのか」
「どうして! そんなことできるわけがない!」
シギルは思わず興奮した。そのはずみで腕に力を入れたため肩が悲鳴を上げた。
「うっ……!」
痛みに身をよじったシギルへと、ファウストは反射的に手を伸ばした。
「大丈夫か!?」
そして布団の上からシギルの身体を支え、静かに、だが確かな声でささやいた。
「シギル、俺はおまえに何があっても受け入れる。おまえが悪魔の子で、たとえいつか世界を滅ぼす元凶になったとしても、そんなことは問題じゃない。問題じゃないんだ」
邪心のない例えはあまりにも核心に近くて、シギルは目を見開いた。
「兄さん」
シギルがぽつりと言ったそのひと言に、ファウストは幸福の境地を見出した。それこそが最も待ち望んだ言葉だったからだ。しかし、
「この世で身元不明なシーランはただ一人。軍人なんだから分かるだろ? それが俺だ。それが——答えだ」
絶望じゃない。悲哀という明確なものでもない。打ちひしがれた心をさらに打ちひしぐ何かを持って、シギルの言葉は綴られた。ファウストは凍てつく空気に気圧され震えた。
「空軍大佐の弟がそれじゃマズイだろ? 俺は兄さんの人生を台無しにしたくない。足枷になりたくないんだ」
ファウストはわずかのあいだ、部屋に深い闇が流れ込んできたように感じた。窓に反射する光はまばゆいほどであるのに、ここだけが深海の闇に没していると……シギルの心に刻まれた傷が見せている幻影か、おのれ自身で生み出している積年の想いなのか。
ただ彼にわかることは、自分が確かに弟に愛されている、という事実だけだった。そうでなければ、シギルがこうもツライ言葉で自身を傷つける理由はない。
(自分の弟が「セフィラ」であること、それは確かにショックだ。願わくは嘘であってほしい。だが俺は、もう引き返せない。引き返したくない。生きていた。生きていてくれた。何度あきらめたか知れない命が、こんなに近くで息をしている。その命を目に入れないで過ぎる人生なんて考えられない。そうだろう? 俺たちはシーランの兄弟だ。離れていたこと自体が異常だったんだ。なのに、また引き剥がそうというのか——おまえだって本当は、それでいいはずないだろ、シギル)
ファウストはやるせない心をかかえながら、拳を握った。
「俺が軍人になったのは、おまえを捜すためだ。大佐なんていうのは別段意味のあることじゃない。望むなら辞めてもいい。だが、おまえの身の安全を考えると、そう簡単には辞められないな。すまない。少し気が動転しているようだ。言っていることが支離滅裂だ。でもわかってくれ。俺にはおまえが必要なんだ」
「兄さん」
「俺たちはやっていけるだろ? 兄弟として」
シギルはベッドの縁越しに床へ視線を落とした。
「いろいろ問題が多すぎて……ロイに相談したほうがいいかも」
「ロイ?」
「ロイス・ハーベイ伍長」
「ああ、確か世話になったことがあるとか言っていたな」
「GP創立者の一人だ。いい人だよ」
ファウストはわずかに目をむいた。
「なんだって?」
そんな過去を持つ男が何事もなかったように伍長をやっているという事実に対し、ファウストはあきれて物が言えなかった。軍の監査の甘さにも失望してしまう。
「GPでいい人とは、聞き捨てならん」
「GPはテロ組織じゃなかった。少なくとも、スカイフィールズが現れるまでは普通の研究機関だった。ロイはスカイフィールズに敵対して去ったんだ」
「ずいぶん庇うんだな」
ファウストがふてくされた様子で腕を組むので、シギルはため息をついた。
「ヤキモチ妬いてる場合じゃないよ。とにかく軍内で俺のことを一番知っているのはロイなんだ。二人だけじゃ感情が先行して話ができない。客観的にみてくれる人が必要だ。彼は適任だと思う。それが嫌なら、俺は現状を壊す気はない。最低でもスカイフィールズの手から完全に逃れるまでは。あいつが俺を奪還するために、兄さんを狙わないともかぎらないだろ?」
「見くびるなよ? スカイフィールズの一人や二人。それにグラウコスにいれば奴も簡単には手が出せまい。だからこそ来たんだろう。おまえのことは絶対に守ってみせる。もう二度と失いたくないんだ」
「俺はまだ、将軍を信用していない」
シギルは自分の力を軍事利用されるのでないかと懸念しているのだ。ファウストは小さく唸った。
「あの男は時の権力者の一人としては珍しく高潔だ。真に実力があるんだろう。決して欲に溺れることはないし、信用するにたると俺は思う」
「今はね。でもいざセフィラを手にしたら? 人間の心は変わりやすいんだ。大金を手に入れるまで堅実だったとか、政治家になるまで正義漢だったなんてのはザラにいる。将軍はそうならないという保証はある? 奇跡的にならなかったとしても、俺の正体を知って戦争をしない手はない。GPに奪還されないうちに叩きたいはずさ。それに、ほかに六ある軍事基地の将軍たちが味方につくとも思えない。日頃からカーマル将軍の足を引っ張りたい連中だって聞いたことがある。将軍のもとから俺を奪い取ろうとする分でも援護はしないだろう。そうなったら、いくらグラウコスでも全部を相手に戦えやしない。サイコキネシスをどの程度のものと思っているかは知らないけれど、たとえ使っても無理だ。そんな前代未聞の世界大戦の引き金になる覚悟なんて、俺にはないよ。笑われるかも知れないけれど、こう見えても平和主義者なんだ」
根の深い問題を投げかけられて、ファウストは頭を悩ませた。シギルの言う事はいちいちもっともだ。しかしだからといって、いまさら他人として暮らすことはできない。セフィラの身の上のことだって、いつまで隠しておけるのか。結局、待ち受けているのは戦いしかないのではないかと。
(ブレッド・カーマルは、その正義のためにトップ・マフィアを潰した男だ。あの潔癖な精神はセフィラの念動力をもってしても曲げられまいとは思うが……シギル自身が信頼を寄せてくれなければ、協力体制を組むのはむずかしい。もっと冷静な時なら良い案も浮かぶのだろうが、いかんせん再会の興奮で情に流されすぎている。このままでは万全の解決策など導き出せるはずもない——やはり第三者が必要か)
ファウストは腕組みをとき、ため息をもらしつつ懐から携帯電話を取り出した。
「わかった。ロイス・ハーベイに相談しよう。番号を教えてくれ」