紫水宮
「お待ちして……」
薄桃色の襦裙を着た侍女は、羅刹の背後にいる雲嵐を見て表情を凍らせた。
「お時間をお取りいただきありがとうございます。宦官の右刹です。こちらは雲母。顔面に酷い火傷を負っているため、面を被っております」
愛想のいい笑みを浮かべながら羅刹はそう紹介した。この面への違和感を残したまま本題へは入りづらい。即興で考えついた言い訳だが侍女は納得したらしい。
「そうでしたか。それはお可哀想に」
心底同情している様子の彼女に申し訳なく思う。
「書記としては優秀なので、記録係として連れて参りました」
背後の雲嵐が膝を折る。間近で見るとより図体の大きさを実感した。羅刹より頭二つ半ほど背丈が大きい。これでなぜ女装をしようと思ったのか甚だ疑問だが、それを考えると先に進めないので気にしないことにしておく。
「私は紫水宮で芙蓉様の侍女頭をしておりました明凛と申します。中にお茶を用意しております。どうぞお入りください」
明凛に伴われ、羅刹と雲嵐は紫水宮の中へと足を踏み入れる。宮の中は綺麗に掃き清められ、漆の塗られた柱はよく磨かれている。だが。飾り物の類が一切なく華やかさがない。
「ずいぶんとすっきりされているようですが」
「紫水宮の主人である芙蓉様が亡くなられましたから。次の貴妃様を迎えるための準備をしております」
悲しげに微笑む明凛のまなじりから、涙が一筋落ちた。申し訳ございません、と言いながら溢れる涙を止められぬまま、彼女は嗚咽をもらす。
「芙蓉様を大事に思われていたのですね」
「はい。闊達とした、気持ちの良い方で。私たち侍女にも大変良くしてくださいました」
明凛は涙を拭い、芙蓉妃の思い出話をした。彼女がこの宮にやってきたのは十七の時。父親が宰相ということで、はじめから上級妃として後宮入りしたそうだ。
「悪霊に取り憑かれたという噂をお聞きしましたが」
羅刹が発した、悪霊、という言葉に反応し、明凛の肩が目に見えてこわばる。
「何度か陛下のお渡りがあったあとです。妃の幽霊がみえると仰られるようになったのは」
明凛の話をまとめるとこうだ。
芙蓉妃が眠りに落ちかけたとき、ふと窓辺に目をやると、下ろし髪を風に揺らす妃嬪が窓辺に腰掛けていた。髪が顔に垂れているせいで顔の造作は見えない。しかしとても美しい女だと思ったと言っていたそうだ。
芙蓉妃は慌てて人を呼んだが、侍女が部屋に入る頃には消えていたという。
初めは何かの見間違いかもしれないと思ったそうだが、陛下のお渡りが重なれば重なるほど、芙蓉妃は夜うなされるようになった。
「またあの女が来る。私を殺しにやってくるの。芙蓉様はそう訴えておりました」
「紫水宮で芙蓉妃の他に幽霊の姿を見た方は」
「おりません」
「では、具体的な姿形は誰もわからないのですね」
「はい」
紙の上を筆が滑る音がする。雲嵐は事前の打ち合わせ通り、ちゃんと会話を書きつけてくれているようだ。気が散りそうなので書いているところは見ないでおくが。
「それで、だんだんと衰弱されていったと」
「はい。食事も受け付けなくなり、昼でも夢を見ているようでした。どこを見ているのかまったくわからないというような。突然泣き出したり暴れられたり、舞を舞ったりと……とにかく普段の芙蓉様からは考えられない行動をとられて」
羅刹は腕を組む。たしかに明凛の話だけ聞けば、悪霊に呪い殺されたという噂が立つのもわかる。
「毒の可能性は?」
「ありえません。食事は毒味係が全て確認していましたし」
「芙蓉妃の身の回りの品に不審な点は?」
「様子が変わられる前後で特に変わった点はありませんが……事前にご依頼いただいた通り、隣室にまとめております。ご覧になられますか」
「ありがとうございます。拝見いたします」
ガタン。
静寂を破った大きな音に、羅刹は椅子から飛びはねた。見れば雲嵐が立ち上がっていて、彼の座っていた椅子が後ろに倒れていた。
幽霊話の最中にそういうのはやめてよ……!
羅刹は早鐘のようになる心臓を服の上から押さえながら、極めて平静を装って雲嵐の面を見上げる。
「雲母、どうした」
そう羅刹が言い終わる前に、暗緑色の襦裙を着た仮面の大女は、獲物を見つけた虎のように出口へ向けてかけていく。走った拍子に面が落ちそうになったのか、両手で大頭面をおさえながらという滑稽な姿勢で。
「ど、どうされたのでしょう」
「厠です」
「え」
「拾った蛙でも生で食って、腹でも下したのでしょう。気にしないでください」
真顔でそう言った羅刹の横顔を、明凛は戸惑いの表情で見ている。
羅刹は雲嵐の不自然さをごますのは諦め、隣室へと向かっていった。