後宮へ
「なぜ毎度珍妙な面を被っているのですか! 変装というなら他にあるでしょうに」
「……陽に当たると溶けてしまうのでな」
「下手な言い訳もやめてください」
「うぐ。大丈夫だ。変装はこれで完成ではない。お前も一緒に来い」
雲嵐は羅刹の手首を掴むと、後宮のある内朝の方向へと歩き出した。
「待ってください。まだ仕事が」
「吏部尚書には許可をとってある。午後いっぱいお前を借りると」
「勝手にそんなことしないでください! 私の評価に響くじゃないですか。私が志部に行けなくなったら責任を取ってくださるんですか?」
「そんなに志部に行きたいか」
「当たり前です! そのために途方もない苦労をしてここへきたんですから」
紙職人の養い子が科挙を及第するなど荒唐無稽な話だ。たとえ男であったとしても、教科書を買うための金、寝食を惜しんで勉強するほどの時間、そして並外れた頭脳がなければ実現できぬ道である。
羅刹はあらゆる努力をしてそれを実現した。科挙を受ける良家の子息の家に忍び込み、家庭教師の解説を盗み聞きしたり、書店の店主と仲良くなり、格安で教科書を譲ってもらったりした。それ以外にもできる工夫を全てして、今ここに立っているのだ。
その努力を水の泡にはしたくない。
羅刹の手首を掴む手に力が入った。
雲嵐は立ち止まると振り向き、羅刹と向かい合う形になる。
「偽りの歴史を書かされるとしてもか?」
彼の発した言葉に羅刹は呆気に取られた。偽りの歴史? 何を言っているのか。
「正史なんですから、偽るわけがないでしょう」
「その年で状元及第というから、相当頭はいいのだろうが。意外と純粋なのだな」
それだけ言うと雲嵐は羅刹に背を向けて、羅刹を引っ張るようにして先を歩いていく。
「ちょっ、引っ張らないでくださいってば。今のはどういう」
「そんなに熱望しているなら、志部に確実に配属されるよう俺が手を回してやる」
全身に雷が走るような衝撃を受け、羅刹はその場に立ち尽くす。
「ほ、ほ、ほ、本当ですか」
「今回の悪霊祓いが成功したらだがな」
「ありがとうございますー!! いよっしゃぁぁ! やったるぞぉ!」
途端にやる気になった羅刹に、雲嵐はどう反応したらよいかわからないようだった。
配属について、上司の推薦を得られれば志部への道は開けるが、確実ではない。志望者が多ければふるいにおとされるし、そもそも推薦をもらえる保証はない。そのあたりは人脈を作りつつ、配属を確実にするための小細工が必要になるかもしれないと思っていたのだが。
皇帝に目をかけられている人物が手を回してくれるなら、これほどありがたいことはない。
「さぁ、早く後宮に参りましょう雲嵐様!」
思わずこぼれ出た輝くような笑顔に、雲嵐はギョッとしたようだ。
「……様はやめろ。お前にそう呼ばれると気色が悪い」
◇ ◇ ◇
禹国の後宮に住まう妃たちには位があった。その頂点に位置するのが皇后であり、貴妃、淑妃、徳妃、賢妃と呼ばれる四夫人、さらにその下に中級妃、下級妃がいる。
「侍女などの側仕えも含め、後宮だけで二千人か。数字では知っていましたが、こう目の前で見ると圧巻ですねぇ」
門を越え、後宮内に足を踏み入れた羅刹は、目の前の広場をゆく大勢の女たちを見て感嘆していた。
「そうだな」
「ところであの」
「なんだ」
「やはりあの、もうちょっとマシな変装はなかったのでしょうか」
「完璧な変装だろうが。これならば男であることはばれない。佩玉があれば通行にも問題がない」
下膨れの女の大頭面はやはり不気味である。その上雲嵐が着ているのは暗緑色の女官服。大柄で恵まれた体躯の仮面男がこれを纏ったせいで、屈強な女の怪物が完成した。
「せめてあの、私のように宦官の格好とか」
薄鼠色の宦官の服を着た羅刹の存在感など、もはやないに等しい。
「女の面で服が宦官ではおかしかろう」
「……なんで女の面をかぶってきちゃったかなぁ」
「さあ、ついたぞ」
くだらぬやり取りをしているうち、目的地の建物の前に辿り着いていたようだ。
「……ここが」
「先日亡くなった貴妃 芙蓉妃が住んでいた紫水宮だ」