雛鳥
皇帝の寝所や後宮が位置する内朝の一室。
黒い胡服に身を包み、苦悶の表情を浮かべる皇帝を前に、雲嵐はひざまずき、頭を垂れていた。
「雲嵐」
「はい」
「どうだ。芙蓉妃の死因は分かったか」
「医官による調査は終わりましたが、芳しい結果はなにも」
「またも収穫なしか。これで三人目だぞ。あまりにも続きすぎている」
まだ三十路半ばの皇帝、蒼徳の頭髪には白が混じるようになっていた。顔立ちはまだ若さを保っているが、目の下には色素の沈着が見られる。
十代のころは鷹のようだと誉めそやされた精悍さも、もはや見る影もない。
天敵を狩り尽くした安堵感は、人をこうもふ抜けさせるのか。
雲嵐は蔑むように鼻で笑った。
かつてこの男の劣等感と嫉妬心を煽り、鬼に変えさせた一族はもういない。
残ったのは籠の鳥が一羽。いつでも捻り潰せる程度の弱々しい雛鳥だ。
「お前がやったのではあるまいな」
「そのような恐ろしいこと、できるはずがありません」
目を伏せ、気弱な男を演じる。自分は出来損ないで、親から受け継いだ優秀さのかけらもない。そう、見せておかねばならない。
蒼徳は心の中まで覗き込むように、雲嵐を凝視している。
怯えているのだろうか。
餌も与えず、血統がいいだけのうつけに育った雛鳥にさえも。
「後宮の悪霊だなどと……。そんなものがいてたまるか」
吐き捨てるように言うが、その声は震えていた。
引き戸が引かれ、金色の髪を後ろに束ねた宦官が入ってきた。彼は皇帝のすぐそばに跪くと、小声で伝達をする。
「悪霊騒ぎが大きくなったせいで、最近は娘を差し出すのを厭う家が増えてきている。早くなんとかせよ」
苦虫を潰したような顔をするのをやっと堪える。ここでも仮面が被れたらいいのに、と雲嵐は思った。
「官は怯えてあてにならぬ。お前が後宮へ赴き、直接悪霊について調査の上、速やかに問題を解決しろ。くれぐれも内密に。目立つ行動は控えるのだぞ」
そう言って皇帝は椅子から立ち上がり、扉の向こうへと消えていった。その後ろ姿を追うように、束ねた金の後ろ髪を揺らしながら、宦官も立ち去っていく。
「悪霊、ね」
雲嵐は目を伏せ、しばしその場に佇んでいた。
◇ ◇ ◇
後宮に巣食う悪霊。
その噂については、聞いたことがあった。なんでもその悪霊は陛下が寵愛する妃嬪を、次々に呪い殺すのだという。
雲嵐によると、現れる悪霊は上級妃の姿をしているらしい。虚ろな目をこちらに向け、何やらぶつぶつと呟いているそうだ。
悪霊を見るようになった妃は、夜中の立ち歩き、ひとりごとが増えたりと、不可解な行動が増えていく。そしてだんだんと衰弱していき、水も食事も喉を通らなくなり、最後には儚くなってしまうのだという。
それを怖がってか、後宮の妃嬪は皆、自主的に地味な服装を通し、皇帝の目にとまらぬように装うようになった。本来なら出世のため、皇家と縁を結びたいはずの官吏たちでさえも、娘を後宮に積極的に差し出すものが減ってきているらしい。
悪霊ねえ。馬鹿馬鹿しい。そんなものが本当にいるわけがないのに。
羅刹は食堂で包子を頬張りながら鼻息を漏らした。
現在の皇帝には十八歳の東宮が一人。それ以外は皆幼い姫で皇子はいない。東宮に万が一のことがあった時のために、後継者候補としてもう一人二人皇子が欲しいはず。この状況はまずいのだろう。
それで怪しげな食客が動いている。羅刹は熊猫の面を思い出し、鼻の頭に皺を寄せた。調査を監督する候補に、もうちょっとマシな人間はいなかったのだろうか。あんな怪しげな仮面男にまかせるなど、尊きお方の考えることは理解できない。
しかも仮面男は、あろうことか優秀な進士の弱みを握ってただ働きさせようとしている。けしからんことこの上ない。
イライラしながら包子を口に押し込み、仕事の開始前まで史書でも読みに行こうかというところ。回廊の先がやたらに騒がしいのに気がついた。
「皇帝陛下だ」
「蔡華様もご一緒だ」
慌ててその場で拳を合わせ、膝をつく。視線だけ動かし、やや遠方にいる二人を見て声を漏らしそうになった。
まず皇帝陛下ではなく、その隣にいる男に目を奪われてしまった。禹国では珍しい、錦のような豊かな髪を、後ろで束ねている。傾国の美女とはよく言うが、そういう人が存在するなら、まさにこういう人だと思うほどの麗人だった。
あれ、でも胡服をきている。
「はあ、あれで宦官ていうのが勿体無いよな」
「あれだけの美貌だ。俺は宦官でもいい」
「下手な女をもらうより、蔡華様を嫁にもらいたいよ、俺は」
周囲の下世話な会話により、羅刹は彼の正体を知った。宦官。後宮に仕えるため、イチモツを切り落とした男。または罪を犯し、宮刑となった者だ。
皇帝の側仕えをするほどだから、前者だろうか。
あまりの美しさに、恋愛のれの字も興味がない羅刹でも思わず見惚れてしまった。
「羅刹」
「うわあっ!」
「なんだ、うわあとは」
噂をすればなんとやら。腹に響くような低音。忘れるわけもない、仮面男の声だ。
「その低音で突然後ろから話しかけないでくださいよ! びっくりするじゃないですか。しかもあなたの場合、熊面……ってなんですかそれは」
背後を振り返った羅刹は、硬直した。雲嵐は、今日は笑い顔の妃嬪の大頭面を被っていたのだった。