雲嵐の頼みごと
麻布に巻かれ、視界を奪われた羅刹は丘に打ち上げられた魚の如く暴れる。
「あなた、さっきの熊猫ですよね?」
先ほど対峙したとき思ったが、変人のくせに低音のいい声をしているのだ。自分を抱えている相手は、あいつで間違いない。声を聞いて羅刹は確信した。
「あばれるな、運びにくい」
なぜここまで執拗に追われているのか。意味がわからない。
見失ってからもずっと探されていたのだろうか。なんて執念深いやつだ。
何も見えないまま運ばれる間、外の風を感じていたと思えば室内に入り、今度は沈香の混じった高貴な香が鼻をくすぐった。階段を降りる音が聞こえたかと思えば、人の声が遠ざかって、滴る水が洞穴に落ちるような音が聞こえる。薄暗く湿気に満ちた場所を通っているようだった。
どこに連れて行く気なのだろう。そう思っているうち、急にあたりが明るくなる。
床に下ろされ、ようやく布が取り払われると眩しさに思わず目を細めた。
眼前には、赤茶色の椅子に腰掛けた、予想通りの人物がいた。
「やっぱり熊猫男……!」
「俺は雲嵐だ。熊猫などという名ではない」
「いやでもその被り物」
「これは、その、ええと、て、照れ隠しだ!」
「照れ隠し……?」
なんのための、と聞きかけてやめた。
問題はそこではない。
優雅に足を組んだ雲嵐は、まじまじと羅刹の顔を見ている……気がする。何しろ顔が張子のかぶり面なので、視線が読めない。彼の背景にある調度品や家具を見る限り、ここは御史台ではないようだ。御史台の尋問室ならばもっと殺風景なはずである。
「お前、生まれは」
「生まれ、ですか? わかりません」
「とぼけるな、正直に答えろ」
「そんなこと言われましても。物心つく前に親とは離れ離れになったようで。紙職人の夫妻に働き手として買われたのです。故郷のことはわかりません」
「本当か?」
「この状況で嘘をつけるわけがありません」
「そうか、それは……災難だったな」
張子の熊猫は見るからに萎れた。
俯いた雲嵐は押し黙り、ひと言も発しない。二人しかいない部屋に気まずい沈黙が流れる。
羅刹は顔を顰めた。
おいおい、さっきまでの威勢の良さはどうしたのさ。こっちがいづらくなるじゃない。
強硬な割に若干のおとぼけ具合が気になる。いや、外見だけで言えば、おとぼけ要素しかないのだが。
「あの、貴方様はどなたなのでしょうか」
たまらずに切り出せば、ぴくり、と雲嵐の肩がはねた。
「その、大変美しい胡服をお召しですし。尊き御身の方とお見受けしますが。不勉強なため、お名前を存じ上げず」
「そうか、変装したつもりだったのだが。この胡服はそこまで高価なものだったのか……」
「いや変装って。服が高価とかそれ以前の問題、うえっほ」
「なんだと?」
「いえ、すみません気にしないでください」
どこのおとぼけ坊ちゃんだこの人は。
「で、どなたなんでしょうか」
「俺は、えーと、あれだ。皇帝の食客だ」
「今とってつけましたよね」
「うっ」
見える。熊猫の面の下で冷や汗をかいている様が。見えないはずなのにありありと見える。
「しょ、食客というのは本当だ。見ろ、これを」
雲嵐は大帯につけた佩玉を取り外し、羅刹の眼前に突き出す。
使われた紐は金色。皇家のものにしか許されない色だ。
この色の紐を使った佩玉を帯びているってことは、皇家の関係者っていうのは嘘じゃない……。
羅刹はふう、と息をつく。
まあいい。この人が正体を偽るわけも、熊猫の面を被っている理由もどうでもいい。羅刹が知りたいのは一つだけ。このまま女であることを黙っていてもらえるか否かだ。
覚悟を決め、雲嵐の面を見上げる。
「私は柳羅刹。名は偽っておりませんが、お察しの通り、性別を偽りました」
「む……」
「それには深いわけがあります」
相手の表情が読めない以上、下手な嘘は禁物。ここは真実をつまびらかにしつつ、情に訴えるが吉だ。
「歴史編纂事業と聞いて科挙に挑戦せずにはいられなかったんです」
「……は?」
「だって、歴史編纂事業ですよ? この国を作った人々の躍動を、この手で後世に伝えられる仕事です! それに過去百年にわたる人々の軌跡を調べ尽くすことができる! もう好きなことに浸かり放題じゃないですか! 時間使い放題じゃないですか!」
羅刹は立ち上がり、ぐっと両手の拳を握り締め、熊猫に迫る。
「えっと」
「それに志部に入れば、歴史好きな人たちともお近づきになれるじゃないですか! 語り放題! 養父の家の他の娘たちなんか好きな男の話ばっかりですよ。私の歴史話になんか付き合ってくれなかった! それがもう、議論し放題! だからどうしても官吏になって、志部に入りたかったんです! それに云々カンヌン……」
「もういい! もうわかった!」
「まだ語り終わってません!」
「俺はもういい!」
今すごいノってきたところだったのに。だが、ドン引きする熊猫仮面を見て冷静になった。この男に引かれるのはちょっと心外だ。
「お、お前の熱い思いはよくわかった。女であることは黙っておいてやる。他言しないと誓おう」
「あ……ありがとうございます!!」
通じた。やはり大事なのは心。最後の砦はオタ心なのだ。
「だが条件がある」
「はい、何なりと!」
「お前に、悪霊祓いの手伝いを頼みたい」
あくりょう、ばらい……? 私は祓い屋ではないのですが。
羅刹はあんぐりと口をあけ、意味がわからないという顔をした。
「次々に寵妃を取り殺す、後宮の悪霊の謎を解いてほしいのだ」