仮面の貴人
うきゃあああああ!
そう叫びそうになったのを、すんでのところで押し留めた。
羅刹の背後、立っていたのは雅やかな紫の胡服を着た男。施された刺繍の豪華さから、少なくとも貴族位はもっていそうに見える。背は高く、おそらく羅刹よりも頭三つほど高い。
だが異様なのは顔だ。大頭面、またはかぶり面という、祭などで使う張り子の面をかぶっている。しかもよりによって口が裂けたように笑う熊猫の面。首以下と頭部の方向性が、真逆を行っている。
変人、間違いなく変人。いや、そもそもこれ人なんですか?
羅刹は目の前に立つ理解の範疇を超えた存在に怯えていた。
「質問に答えろ」
「はぇ」
「女なのかと聞いているんだ」
質問の内容を繰り返され、動揺から忘れていた危機感が戻ってくる。
「僕は男です」
きり、といつもの優秀げな官吏の顔に切り替える。胸を見られたといっても一瞬のはず。さも心外ですという雰囲気を醸し出しながらハッタリの余裕顔をかます。
今バレるわけにはいかない。ようやく勝ち取った夢への一歩なのだ。なにがなんでも隠し通さねば。
「こんな場所で着替えていたことについてはお詫びします。官吏としての品位を欠く行為でした。ですがのっぴきならない事情がありまして……」
熊猫面の男は、羅刹の言葉を聞いているのかいないのか、ずかずかとこちらに向かって歩いてくる。冷や汗をかきながら、冷静に状況を説明しつつ、官服の襟元をしっかり両手で合わせていたのだが。
べり。
「ぎゃああああ! なにをするんですかあああ!」
「やはり」
間近に迫った熊猫野郎が突如羅刹の両手を払い、官服の襟を暴いていた。
思いっきり甲高い声を出した羅刹の口を、熊猫男は手で塞ぐ。
「そのキンキン声はやめろ。鼓膜が破れそうだ」
風貌は冗談のようだが、羅刹の頬を掴んだ手は、力強い男のもの。
どうしよう、知られてしまった。貴族であれば、羅刹のような庶民の命など、紙のように軽いものだと思っているはず。皇帝を欺き、官吏として働いていたとあれば、躊躇いなく御史台に突き出されるだろう。そうなればよくて斬首、悪くて凌遅刑に処されることも考えられる。
体を少しずつ削ぎ落とされる凌遅刑は、絶対にいや。そんな死に方はしたくない。
無意識に体が震え始め、瞳からは涙が溢れた。すると男は——なぜかわかりやすく動揺し始めた。
「な、な、な、なぜ泣く!」
とめどなく溢れる涙の粒は、自分の意思では止められない。
口を塞がれたままむせび泣く羅刹を見てか、熊猫はますます狼狽え、動揺し、羅刹から手を離した。
解放された瞬間、羅刹はハッと我に帰り脱兎の如く逃げ出した。書類を顎で挟み、走りながら官服の乱れを直す。我ながら器用なことをしている。だが、こんなところで終わるわけにはいかない。
あんな人会ったことないし、私の名前は知らないはず。髪型を変えたり、眉の形を変えたりすれば、人相は変えられる。そうすればきっと見つからない。今、逃げ切れさえすれば。
「ま、待て!」
一歩出遅れた熊猫男だが、身長が高い分歩幅が長い。着々と距離は詰められていく。迫り来る恐怖の面から逃れるべく、羅刹は宮廷の中をめちゃくちゃに走った。
半泣きで逃げる背の低い小柄な官吏と、服だけは立派な熊猫面の不審者。
この日彼らの姿はあちこちで他の官吏によって目撃され、のちに宮廷七不思議として語り継がれることになる。
「吏部です、書類をお届けにあがりました! こちらに置いていきます!」
なんとか熊猫をまき、御史台に到着した羅刹は、書類を文机にたたきつける。御史台の監察御史たちは一様に眉を顰めたが、今日のこれは仕方がない。どうか私のことは忘れておいて、そう願いながら羅刹は御史台のある殿を出た。
息も絶え絶え、額には汗が滲み、全身からも汗が吹き出している。
やり終えた。同期の嫌がらせにも負けず、柳の後ろから出現した熊猫貴族にも負けず、午前の仕事を完遂したのだ。
「ただ書類を届けるだけだったはずなのに、なんでこんなに疲れてるの、私」
袖で額を拭いながら、羅刹は独りごちた。
「さあ、昼は手早く済ませて、午後も仕事にうちこむぞ!」
そう気合を入れ、あと一歩で吏部のある瑠璃殿に戻ろうというところだったのだが。
「俺から逃げられると思うな」
振り返る間も無く、視界に薄茶色いものが降ってくる。
麻布だ。そう気づく頃には頭から足まで被された布の上からぐるぐるに紐のようなものを巻かれ、何者かの小脇に抱えられ運ばれていた。