助け舟
がつん。
咄嗟に目をつぶった羅刹は、音がしたのに衝撃がないことに気づき、うっすら目を開ける。
焦点を結んだ先にいたのは、呆気に取られた漢林の顔。そしてお互い状況がわからぬまま見つめあううち、彼の眉間がどんどん赤みを帯びていく。
「こんのっ……、貴様なにをした!」
顔を歪め、顔を押さえてうずくまった漢林を見下げた。彼の足元に何か細長いものが落ちている。どうやら誰かが彼の眉間めがけて投げつけたらしい。
ひろいあげて広げてみれば、それは一目で上物とわかる、金箔が散りばめられた扇だった。
「君の眉間に当たったのはこれみたいだね……って」
ふと、扇の骨をとじ合わせるために嵌め込まれた要に目がいく。その要の釘に施された紋様には見覚えがあった。
「これ、皇家の家紋じゃないか」
その言葉に、漢林以下略が青ざめる。
羅刹は周りを見渡したが、扇の主は見当たらない。
こんなやんごとなきものを投げつけられるのは、皇家ゆかりの人間か、その忠臣か……。いや、忠臣もないか。投げたら最後、独房行きだ。
「お前ら、仕事に戻るぞ!」
「は、はい!」
尻尾を巻いて逃げていく負け犬たちを、羅刹は片眉を上げつつ見送った。
相変わらず扇の主が出てくる気配はない。お礼くらい言いたかったが、出てこぬのであれば仕方がない。
「書類は無事……だけど、官服がなぁ」
状元及第者に対するやっかみを持つものは多く、ここまでではないが、瑣末な嫌がらせはこれまでも多々あった。槍が降ろうと泥が降ろうと仕事に支障が出ぬよう、官服の中には着替え一式から刃物、裁縫道具もろもろ仕込んである。
「この辺はあんまりこないから、どこが安全に着替えられる場所かわからないな」
周囲を見渡し、外廊下に面した庭園に目が止まった。整えられた池の辺り、柳の木がいい具合に影をおとしている。
この時間、皆忙しく働いている。あんな木陰でのんびりするやつなどいないはず。下手に建物の中で着替えるよりずっと人の目には止まりにくいはず。
左右から人が来ないのを確認し、外廊下から庭園へ出る。池の周囲に配置された造形物や庭木をうまく利用しながら、目立たないよう目的の柳のあたりまで移動した。
やはり人気はない。というかむしろ、人ではない何かが出そうな不気味さのある場所だ。
太陽はあと少しで南中に登りつつある。急がねば。羅刹は急いで汚れた官服を脱ぎ、新しい官服を手に取った——そのときだった。
「お前……」
羅刹はぎくりとし、さぁっと全身の血の気が引いた。
「もしや、女か……?」
慌てて着替えの官服を羽織り、油が切れたカラクリの如く振り返る。
そして背後にいた人物を認めた瞬間、羅刹は声にならない悲鳴をあげた。