生意気な進士
希望に満ち溢れた進士式からひと月が経ったころ。春の麗らかな日差しの中、羅刹は大量の紙の束を抱えて宮廷中を歩き回っていた。
「ええっと、次は工部だよね。ってええ! 嘘ぉ、こんなに遠いのぉ……」
半泣きになりながら地図を確認する。配っているのは各部に配布する人事異動者のリストだ。宮廷の人事をつかさどる吏部に仮配属された彼女の今日の任務は、午前中にこの束を配り終えることである。
同期の官吏の出世の行方は、やはり誰しも気になるらしい。どの部も忙しく動き回っているが、羅刹が顔を出し、吏部のりの字を口にした瞬間、ひったくるように書類をもっていかれた。
「吏部です、異動……」
「確認しておく!」
工部に到着して早々、古株らしき若葉色の官服を着た男に、手元の書類をひったくられる。ここも同じか。疲れもあり、ムッとした羅刹は「ちゃんとお礼くらい言いなさいよ」と心の中で毒づきながら、すでにこちらに背を向けている男に向かい顎を突き出し威嚇してみせた。
すると背中に目でもついているのか、くるりと後ろを振り返られる。
「まだ何かあるのか?」
「いえ、何もアリマセン」
顎を引っ込みそびれた顔でそう返した羅刹は、逃げるように工部を飛び出していく。
「しまったしまった。私は優秀な新人! 他部に悪印象を持たれる行動は避けないと……」
自分に言い聞かせるように言いながら、残った書類を確認する。残るは御史台、官吏を監察し、不正を正す部署であり、他の官吏たちからは敬遠されている場所だ。できれば行きたくないが、仕事とあればそうはいかない。
「えーと、こっちだな」
手に持っていた地図を懐にしまい、書類を両手で抱え直す。進士を表す薄青の官服は汗に濡れていた。
小走りになりながら人気のない外廊下を進みつつ、太陽の位置を確認する。
「なんとか昼までには配り終えられそう」
思わず安堵の言葉が口をついて出たそのとき。
ばしん。
生暖かく、重たいものが肩の上に落ちる。
なにが当たったのかと歩みを止めてみれば、二度、三度と衝撃が続き、ふわん、と草のにおいが鼻をつく。それに少しの腐敗臭。
「馬糞? うわあ、ベッタリ」
薄青の官服の肩が泥を浴びたようになっているのを見て、羅刹は慌てて手ではたき落とす。
肩は少し掠めたくらいだったが、あとの二発はまともに当たったので、背中はもっと酷いことになっているだろう。これから泣く子も黙る御史台に行くというのに、なんたることだ。
ふと殺気を感じ、咄嗟に頭を下げる。直後、頭の上を何かが通り抜けた音がした。
「おいおい、的は避けるなよ」
鼻にかかる気障ったらしい声の方を振り返ってみれば、吊り目の青年が立っていた。
銀色の短髪に、気の強さを表したような少し上を向いた高い鼻。まあまあ整った顔立ちはしているが、性格は悪そうである。
「なにをするんだ」
感情に任せて怒り散らしたい気持ちをグッと抑え、極力低い声で憤りを現す。思うままに罵ってやりたいところだが、そうすると女である素の自分が出てしまう。
「毎度毎度、挨拶もなく通り過ぎていきやがるから、ちょっと注意してやろうと思ってな」
吊り目の男の後ろから、もう二人官服の男が出てきた。手が汚れているところを見るに、彼らが実行犯らしい。
薄青の官服、ということは、彼らも進士か。
国の頭脳となるはずの人間たちが情けない。早速強そうなものの腰巾着をすることに決めたらしい。
「初対面のやつに挨拶なんてできるわけがないだろ。急いでいるのでこれで」
書類を両腕で守るように胸に抱き、涼しい顔をして通り過ぎようとしたが。吊り目にフンのついていない方の肩を掴まれる。
「どこまで俺を馬鹿にすれば気が済むんだ、柳羅刹」
「そうだ、李本家のご子息になんたる無礼!」
掴まれた肩にギリギリと指が食い込む。男の力で乱暴されれば、鶏ガラのような自分の体はひとたまりもない。だが、この高慢な男に下るのは我慢ならなかった。
「李本家、何人も将軍を排出した名門中の名門だね。その李家の君がどうして僕にお時間を割いてくださったの?」
「そこまでわかっておいて無視を決め込んでいたとは。貴様よほど度胸があると見える」
及第後の人脈作りの参考として、宮廷の勢力関係図は頭に入れている。そのため李家についても知ってはいた。だが軍部に強い李家との人脈は、志部への道の優位にも劣位にも働かない。つまり羅刹にとってはどうでも良い存在で、あまり気を払っていなかった。李家の息子が同期にいるというのも今知ったくらいだ。
「漢林様の進士式での厚意も無駄になさって、厚顔無恥というのはお前のようなやつのことを言うのだな」
腰巾着一が何か言っている。もはや名前を覚える気にもなれない。そしてさっきからなんなんだ。遠回しにへり下るよう促す物言いに嫌気がさす。だが、腰巾着の言葉の中に、一つ気になる言葉があった。
「進士式での厚意、ってなに」
「とぼけやがって。普段は後ろ盾のろくにない市民になど、お声をかけない漢林様が、ただお前が隣にいたというそれだけで、声をかけてくださろうとしたんだ。これがどれだけありがたいことか、わかっているのか?」
腰巾着二の言葉は、途中から聞こえていなかった。進士式の場面が頭の中で蘇る。式が終わり、皆が席を立った時、視界の横で誰かが必死に喋っていたような気がしてきた。ぼやっとしか記憶にないが、ちょうど漢林のような銀髪の男だった気がする。あれは誰かに向けて喋っていたのではなくて、もしかして自分に話しかけていたのでは。
「もしかして、進士式の時僕の隣の席にいた人? っていうか、榜眼?」
「貴様……!」
——またやっちゃった。妄想に耽ってるとどうも周りの声が聞こえなくなっちゃうんだよねえ。
あの時は夢への一歩が嬉しすぎて、ずっと志部で働く自分の姿を妄想していたのだ。好きなことに夢中になると、他のことに気が向かなくなるのは羅刹の悪い癖である。
——そうか、このお坊ちゃんは、自分がせっかく声をかけたのに無視されたのが余程癪に触ったのね。
自分にも多少は突っかかられる理由があったのに気づき、急に冷静になっていく。だとしても、馬糞を投げつけられるほどの行いをしたとは思えないが。
「ごめん、全然気が付かなかった。もしかして、友達になってくれようとしてた?」
そう言い切ったあとで、自分が漢林の逆鱗に触れたことに気が付く。彼は羅刹の肩を掴んだまま、大きく後ろに拳を振りかぶっていた。