消された歴史③
羅刹の胸にも刺青がある。
子どもの頃はあざだと思ったが、よくよく見れば鳥の羽のような形に見えた。これは刺青なのではないかと思い、養母に見せてみたこともあったが。
「そんなもん人に見せるな。いいかい、誰にも見せるんじゃないよ」
そう一喝された記憶がある。
でも思い起こせばその日から、羅刹は一人だけ他の娘たちとは別の時間に湯に入るように言いつけられた。
あれは、刺青のある女が娘にいるということが、恥ずべきことだったからなのだろうか。
それとも隠さねばならない理由があったのだろうか。
あの妓女の刺青はどういう経緯で入れたものなのだろう。
羅刹の刺青と比べ、彼女の刺青は豪華だった。妓館に来てから彫られたものか、はたまた来る前に、自ら進んで彫ったものなのだろうか——。
地下に続く薄闇を行きながら、羅刹の頭の中では、滑らかな肌の上に咲く青墨の花が踊っていた。
カビ臭さが鼻をつく。あまり人の出入りがない場所のように思う。階段は所々欠けていて歩きづらく、唯一の光源は、雲嵐が鍵と共に妓女から渡された行燈だけである。
どうやら弥生というのは、この先にあるものを指す隠語らしい。
「ずいぶん古い地下室ですね。でも、頑丈そうだ」
階段は石造りでしっかりしているが、足元が暗くて歩きづらい。
「軽く百年は経っているだろう」
「百年!?」
驚いて滑り落ちそうになった羅刹を雲嵐が受け止める。向かい合った雲嵐の顔を見て、羅刹は驚いた。原色の鮮やかな木彫りの面はそこにはなく、浅海を思わせる双眸がある。いつの間にか、面は外していたらしい。
「ついた。凰家の隠し部屋だ」
そう言った雲嵐は羅刹に背を向け、前方を照らす。幾何学模様が描かれた木製の扉がそこにはあった。
「凰?」
「行燈を持って待っていろ」
羅刹の質問には答えず、雲嵐は扉に手をかける。よく見ると扉の幾何学模様は絵ではない。細かな木の部品を継いで作り上げた見事な細工であった。雲嵐は指の先ほどの窪みに人差し指を引っ掛けると、木と木のぶつかる音を立てながら、次々と仕掛けを解いていく。
「凰家は、過去百年、この禹国を支えた知恵の一族だ。鳳凰が人間の女と交わって生まれた子の末裔とされ、あらゆる分野で才能を発揮した」
羅刹はそんなバカな、と顔を歪ませる。
「そんな話聞いたことがありません。科挙で出る範囲はもちろん、進士になってからは宮廷の書庫を利用して、史書という史書を読み漁りました。その中に凰なんていう氏は出てきませんでしたよ」
これだけは自信を持って言える。度を超えた歴史好きの自分がそんな有名な一族を知らぬわけがないという自負があった。
「やはりお前は真っ直ぐすぎる」
扉のカラクリを解きながら、雲嵐は答える。
「その書庫の史書に、黒塗りの箇所はなかったか」
「あ、ありましたけど。あれは訂正では」
「書庫の史書、そしてそれに準ずる資料が、あれですべてだと思うか?」
「すべて、ではないと思いますが。まさか、それだけ貢献した一族を歴史から抹消するなんてこと」
「それができるのが皇帝だ」
錠の外れる音がして、扉が自然に内側に向かって開く。
雲嵐は羅刹の手から行燈を受け取り、中を照らした。
「……まさかこれって」
橙の明かりに照らしだされたのは、部屋中に敷き詰められた本、木簡、紐でまとめられた紙の類。
「皇帝によって処分が命じられた、消された歴史の部屋だ。凰家に関わる資料は、一部は黒塗りにされ、重要なものは火にくべられた。これは皇帝の粛清から逃れた凰家の者たちが、命懸けで残した史料だ」
心の臓が、うるさく鳴る。まるで耳元でなっているかのように、激しく鼓動している。
これが、闇に葬られた真実の姿。綴られるはずだった、歴史の断片。
「うっひゃあああああああああ!」
羅刹が目を輝かせたのは言うまでも無い。
「こ、こ、こ、こ、これが、全部。本当に、私の知らない一族が……? しかも百年もの間の働きを抹消されていたと?」
「落ち着け」
「あ、うあ、誰も知らない、歴史の……」
まずい、過呼吸になってきた。慌てた雲嵐によって両肩を捕まれ、揺さぶられる。
「俺の目を見ろ、いいか、ゆっくりと息をすえ」
「すうう、はああ、すうう、はああ」
落ち着いてきた、ような気がする。が、まだ動悸は激しい。
「大丈夫か」
「だいじょば無いですが、なんとか」
「……そんなに歴史が好きか」
「好きです!! だって浪漫があるもの!! しかも意図的に消された歴史だなんて!! その裏にどんな物語があって、どんな策略があって、そしてどんな英傑がいたのかなんて考えた日にゃあもう!! あああ、手が、手が震えてきた」
「すまん、今の質問は俺が悪かった。頼むから落ち着いてくれ」
四半刻かけて、ようやく落ち着きを取り戻した羅刹は、階段に座らされた。そのまま部屋に入れたら、錯乱して失神でもしかねないと思われたのだろう。
「記部の記録で差し替えられていた部分については、この隠し部屋の奥に保管されている。だが、おそらくそれだけ読んだだけでは、なぜその箇所だけが隠されたのか理解できないだろう」
「つまり、ここの蔵書を全て読めということですね」
雲嵐の美しい顔が「何を言っているんだ」とばかりに歪む。
「あまり悠長に調査をしているわけにもいかん。俺が今、概要を理解するに必要な書を取って——」
「二日ください」
羅刹の言葉に雲嵐は目を丸くした。
「どれだけあると思ってる。分厚い辞書に換算したとして、三百はあるぞ」
「それだけあれば、この書庫の本、すべて読み切れます」
雲嵐は怪訝な顔をする。
「厚みのある本でも、十分あれば読み切れますし、史書なら、一言一句記憶できます。そしてたぶんですが、一生忘れません。小さい時に読んだ史書も、いまだに書き起こせますから」
「なるほど」
雲嵐は妙に納得した顔をした。何がなるほどなのだろうか。
「では二日やる。吏部には俺が話をつけておいてやろう。衣食住は妓楼の方に頼んでおく」
「二日くらいなら、お手水と水さえなんとかなれば凌げます」
「駄目に決まっているだろう。お前に倒れられては困る。本題を忘れるな。あくまでお前への依頼は、後宮の悪霊祓いなのだから」
あまりに興奮して、すっかりその点を忘れそうになっていた。
「あ」という顔をしたのを、雲嵐は見逃さない。舌打ちをされてしまった。
「それもそうですね。では、甘えさせていただきます」
礼をした羅刹は、待ちきれずに部屋の中へ歩みを進めていく。部屋の中はお宝だらけだ。
生きててよかった。こんな幸せな時間を与えてもらえるなんて。
羅刹は一秒も無駄にするまいと、手近な本から読み始めた。
◇ ◇ ◇
雲嵐は羅刹が部屋に入っていくのを見届け、黙々と本を読み漁る彼女をしばし観察する。
本当にわずかな時間で一冊読み切っている。恐ろしい。
「好きなことにあそこまで没頭できるのは羨ましいな」
自分には好きなものなどない。ただ殺されないように生きてきた。うつけを演じ、人目を憚って惰眠を貪り、ただ生を消費する毎日だ。
羅刹と出会ったのは、どうせ暇だろうと帝から面倒ごとを押し付けられ、ぶすくれていた時。麗玲が間違えて仕入れた珍妙な面をかぶり、気分転換にそれを被って外に出てみたところだった。
胸に「印」を持つ聡明で度胸のある彼女を捕まえたときは、厄介ごとを一緒に片付けてくれる便利な駒を得たと思った。しかし一緒に行動するたび、これまでに感じたことのない感情が芽生えたのを感じていた。
ふざけ合える友がいるというのは楽しいものだ。
自分には気を許せる人間がいなかった。
存在してはいけない皇子だったから。
いつかは殺される。その運命を半ば受け入れていた。
今は、毎日が輝いて見える。この厄介な帝の命に対しても、使命感が芽生えてきた。
羅刹と協力し、この事件の犯人にたどり着いたとき、自分は何か変われるかもしれない。
たまに奇声をあげ、走り回るのを我慢している様子の羅刹を見て呆れつつも。雲嵐の口元からは笑みが漏れていた。