消された歴史②
雲嵐に案内されたのは、朱雀大路に面した妓楼の一つ。「桜桃館」という立派な看板が掲げられたその楼の二階、紅い柱の露台から美女たちが通りをゆく男どもに手をふっている。
躊躇いなく女衒に入ろうとする雲嵐の袖を羅刹は掴む。
「い、いったい何しに僕をここに連れ込むつもりですか」
「安心しろ、俺は女を買いに来たわけじゃない」
妓楼に入るのに?
羅刹の頭には疑問符が浮かぶ。男女のあれこれをするため以外に、妓楼にどんな用事があると言うのか。
「え、じゃあどうしてここに」
「ついてこい」
促されるまま豪華絢爛な門をくぐれば、襦裙を肩まで着崩し、豊満な胸の谷間を見せた三十路くらいの妓女が奥から現れた。
「あら、誰かと思えば雲嵐じゃないかい。ずいぶん可愛いお客さんを連れて。っていうかあんたそのお面はどうしたの」
「変装だ」
「いや変装って。前は長い前髪で隠すとかしてたじゃないの。なんでまたそんな逆に目立つ格好を」
「最近ちょっと気に入っている」
「前々から変な奴だとは思ってはいたけど。拍車がかかったねえ」
柳のような眉尻を下げながら、妓女は呆れた顔をする。「変な奴」であることには定評があるらしい。
「弥生はいるか」
「なあんだ、アタシと遊んでくれるんじゃないわけ。あんたならちょっとくらい負けてやってもいいのに」
ぽってりした唇に黒めがちな瞳。溢れんばかりの色気を武器にして、女は雲嵐に上目遣いを向ける。男なら落ちない奴はいないであろうほどの、見事な流し目である。
「早く案内しろ」
やはり仮面の変人には、一般的な男としての感性を求めてはいけないらしい。
虫でも払うかのように絶世の美女の色仕掛けを袖にしている。
「つれないねぇ。まあ、わかってるけど」
カラカラと笑う妓女は、ついてきな、と手招きをする。部屋がある二階に案内されると思いきや、通されたのは帳場。丸眼鏡をかけた好々爺と気の強そうな老婆が忙しそうに書類を捌いていた。
「おかあさん。雲嵐が来たよ。弥生《《に》》案内するよ」
「ああ、なんだね。今日は若いもん連れて。引きこもりのあんたが珍しい」
おかあさん、と呼ばれた老婆は、雲嵐を見、羅刹を一瞥する。
「泊まっていくかい?」
「用事が終われば帰る。こいつには構うな」
「なんだ。たまには客を連れてきな。せっかくあんなところに住んでんだからさ」
はぁ、と投げやりなため息をつくと、老婆は算盤を弾き始める。
羅刹は雲嵐を見つめた。妓女や老婆とのやりとりは、それなりに親しい間柄のように感じる。この無口な男は、どういう経緯で妓楼の人々と知り合いになったのだろう。
いつの間にか消えていた妓女が、重たげな鉄製の鍵を持って戻ってきた。受け取った雲嵐は、帳場の奥へと歩いていく。羅刹もそれに続くが、気になって振り向けば、妓女がこちらを見ていた。
口角を上げ、にっと微笑む彼女の胸には、よく見れば小さな刺青があった。
花のように見えたが、それにしては形が歪な気がした。