消された歴史①
咲き乱れる月季の花が、皇帝のおわす雷光宮の庭を紅色に染めている。
宮から伸びた橋の先、小島の上に建てられた四阿には今上帝である蒼徳の姿があった。
「またここにいらしたのですか」
丸みを帯びた柔らかな声が聞こえた。蒼徳は振り返らなかったが、そこに誰がいるのかはわかった。
「蔡華か」
陰鬱な雨上がりの土の匂いを、華やかな茶の香りが掻き消す。卓の上に青磁の器に入った茶が置かれる。
「茉莉花茶をお淹れしました」
「今は何か飲む気分ではない」
「朝白湯を召し上がってから、一度も水分を取られていないはずです。少しでも構いませんので、お召し上がりください」
蒼徳は口を歪めたが、蔡華を叱りつけるようなことはしなかった。黙って茶器を手に持ち、口をつける。
「……うまい」
「キャラバンが来ておりましたので、一等良い茶葉を購入いたしました。主上はお疲れのようですから」
芍薬もそっぽをむきそうなほどに美しい顔が、にこりと微笑む。女であれば傾国の美女となったであろう。宦官であっても厄介ごとは多いと聞いている。
「ところで、今日の御渡りはどちらへ」
「しばらくいい。悪霊騒ぎで妃嬪たちは怯えている」
「悪霊などおりませんよ。あまりに御渡りを控えては、噂を助長させましょう」
蔡華の言うことは間違っていない。
世継ぎを残すことも、帝の重要な責務である。悪霊などというまやかしを恐れ、責を逃れようとするなど馬鹿げている。
「徳妃のもとへ渡られるのはいかがでしょう。あの方は悪霊など気にされないと思いますが」
蔡華の提案に、蒼徳は眉根を寄せる。
「徳妃の元へはいかぬ。お前もわかっているだろう」
「ではたまには下級妃の元を訪れるのはいかがでしょう。彼女たちにとっては出世の機会ですから。喜ばれると思いますよ」
「そうだな……そうしよう」
むせかえるほどの香と、花に彩られ、蝋燭に照らし出された清潔な寝所。
そして飾り立てられ、人形のように自分を待つ妃嬪の姿。その光景を思いうかべ、蒼徳の額には冷や汗が滲んだ。
「お時間を頂ければ、私が下級妃嬪の資料をまとめ、適切な候補をまとめましょう。四夫人の宮を三つも空けたままにしておけば、東宮に力を与えることになります」
東宮という言葉を聞き、蒼徳の頭には血が登った。凪いでいた感情が荒ぶり、息を詰めるような焦燥感が胸の中を支配する。
「東宮が力を得れば、主上のことをどうなさるでしょうか?」
「下級妃から適切な候補を選べ。できるだけ早く」
「承知いたしました」
美しい所作で、蔡華は礼をとる。彼を見送った後で、蒼徳は息をはいた。
この世の栄華を極めたはずなのに。
どうしようもなく喉がかわく。陰鬱な気分は抜けず、周りは全て敵だらけに見える。
だが、ここで終わるわけにはいかない。
「余こそが禹国の帝であり、この国の発展を導くものとなるのだ」
口に出して自分を鼓舞しようとしたが、声になったその言葉は、ずいぶんと弱々しいものだった。
◇ ◇ ◇
後宮記部に残されていた記録からわかったことは三つ。
一つは、徳妃が東宮を出産した前後の記録が改竄されている可能性が高いこと。
もう一つは、犠牲となった三夫人のお渡りの際、やはり特に変わったことはなかったということ。
お渡りが重なるたびに体調を崩していったということで、閨ごとの際何か変わったものを口にしたりしていないかと思ったが、そういったこともなく、つつがなく終わったようだった。その場に焚かれていた香や酒に何か混ぜられているのかと思ったが。香は待機していた侍女頭も嗅いでいるはずで、特に体調を崩した等の情報はなく、酒も直前に毒味役が確かめている上、毒物が混ぜられていれば反応する銀製の盃を使っている。
そのほか記録を読んでわかったことは——。
「どの妃との逢瀬も大変盛り上がっていたようだな」
かっ、と羅刹の顔が赤くなる。
「雲嵐、そういうこと迂闊に口に出さないでください!」
「なぜだ、事実だろう」
記録を確認した二人は、再び羅刹の荒屋で茶をしばいていた。雲嵐曰く、外朝よりも落ち着いて話ができるらしい。
「はぁ、もう。そういうところですよ、紅梅さんに反感を持たれたのは」
彼女の話によると、妃の不審死が起こった直後に、刑部の指示で宦官が調査に来ていたらしい。彼らは記録を読みながら下世話な話を繰り返したため、その場にいた彤史たちは大変不快な思いをしたという。
経緯を聞けば、慇懃な態度でやってきた雲嵐に反感を持つのもわかる。特に、姉が妃であった紅梅は。
歴史を辿るのは好きだ。だけどこうして他人が知られたくない部分を暴くのは気持ちいいものではない。
「それでお前の見解は」
「徳妃の件が気になります」
「それは悪霊騒ぎには関係がないだろう」
「『悪霊』が、徳妃の隠された記録に関連した人物の可能性もあります」
雲嵐はおしだまる。陽気な仮面の絵面だけが騒がしい。
「消された歴史の一片が、今ある歴史を覆すことだってあります。徳妃の情報を隠されたままでは、私は正しい判断を下すことはできません」
キッパリとそう言い切れば、南の部族の仮面が、はあ、と深いため息をつく。
「それも、そうだな」
雲嵐は立ち上がり、上着を翻す。
「ついてこい。消された歴史を知り、一生付きまとう身の危険に向き合う覚悟があるのならばな」