後宮の記録
とめどなく流れてくる涙を拭くようにと、羅刹は手ぬぐいを紅梅に差し出す。彼女は礼を言って受け取る、目元を押さえて嗚咽を漏らした。
よくよく聞けば、彼女は賢妃蘭花の妹なのだという。
「農民だった父は早世し、母は私たち家族に土地を貸していた地主と再婚をしました。義父は母に真摯な態度で求婚をし、娘二人も幸せにすると言いましたが。その言葉は嘘だったのです」
雲嵐は壁際にもたれ、腕を組んで紅梅の話を聞いている。先ほどの高圧的な態度は消え失せて、空気と化していた。
紅梅は唇を噛む。生前の蘭花は、目尻の下がった優しげな瞳に、ツンと尖った鼻、小さく薄い唇を持った近所でも評判の美女だったという。
「義父が母と結婚したのは、姉を自分の娘として後宮に送りこむためでした。宮廷との関係を強固にし、あわよくば皇族と外戚関係になれればと目論んでいたようで」
用済みとなった母親は、使用人と同等の扱いを受け、働かされ続けた結果儚くなったそうだ。姉に容姿の劣る紅梅も母と同様の扱いを受けていたが、彼女は希望を失わなかった。
「私は姉のそばにいてあげたくて。後宮女官の試験を受けました。義父には姉が後宮で帝の目に留まるように手を尽くすと嘘をついて。おかげで試験の際は、色々と配慮をしてくれたので助かりましたが」
「そうでしたか……」
妃の出自については聞いていたが、紅梅が彼女と姉妹であることは把握していなかった。
「姉は私の及第をとても喜んでくれました。女官として後宮に出入りできるようになってからは、姉に呼び出され、お茶をすることもできるようになり」
当時を懐かしむように、紅梅は話す。それまでの境遇を思えば、お互いの生活に余裕が出て、姉妹仲良く時間を過ごせるということは、二人にとってとても幸せなことだったのだろうと想像がつく。
「姫を出産した際はとても幸せそうで。三人でいつまでも幸せに暮らせるように、頑張らないとねなどと言っていて」
「三人で、ですか」
羅刹の言葉の意味に、聡い彼女は気づいたらしい。
「申し訳ありません。不敬ですよね。主上を差し置いて女三人で幸せに暮らそうなどと」
「告げ口をしたりなどはしませんので。どうぞ心のままにお話しください。……それに、そうした境遇であれば、男を厭うのも仕方ないと思います」
「あなたはとても優しい方ですね」
困った顔をしながら、紅梅は目元を拭う。落ち着いてきたのか、涙はおさまっていた。
「姉は、主上に心を許しているようには見えませんでした。私にはなんでも話してくれましたが、主上のことはほぼ話に出てこず。……男性、で話題に出てくるとすれば、そうですね。蔡華様のことでしょうか」
「蔡華様ですか?」
羅刹は首を傾げる。
「ええ、蔡華様は主上のお渡りを知らせる——先ぶれも担当なさっていて。細やかな気遣いをされる方でした。心配事などを聞いてくださったり、体調も気にかけてくださったり」
そこまで話して、紅梅はパッと顔を上げる。
「あ、誤解しないでくださいませ。ほら、あれほど美しい殿方——いえ、宦官ではございますが。なかなかお目にかかれるものではございませんでしょう。それで他の妃嬪や官女、侍女たちと動揺、見目麗しい方に憧れを抱いていた程度のものです。姉が不義を働こうと思っていたわけではありません」
慌てて弁解する紅梅に、羅刹は笑いかける。
「ええ、わかりますよ。宦官でさえ憧れを抱くものも多いのです。お気持ちはわかります」
ほっと胸を撫で下ろす紅梅は、一息つくと元のキリッとした表情を取り戻す。
「姉は上級妃の一人として、心強くあろうと努めていました。それが突然あのような状態になるなんて……。妃の悪霊などという話は、後宮ではよくある話です。閉鎖された娯楽の少ない空間では、そうした話は受けますでしょう。似たような話は溢れています。しかし」
「立て続けに三妃……しかも上級妃が同じ状況で亡くなるようなことはなかった」
羅刹の言葉に紅梅は頷く。
「その通りでございます。姉の様子がおかしいと聞いて、私も宮に駆けつけました。姉は狂ったように『殺される』と訴えていて……ですが私は、変貌していく姉の様子が、本当に悪霊のせいだとは思えなくて。見目は弱々しい印象ではありましたが、芯は強い人でしたから。人ならざるようなものに怯えるような人ではないと思っています」
両手を握りしめ、俯く彼女だったが。きゅっと唇を結び、羅刹の瞳を見つめる。
「一人語りが長くなってしまいました。書庫へとご案内します——どうか、どうか姉の死の真相を暴いてください」
執務室の奥にあった書庫は、きれいに掃除がされていた。紙が傷まないようにするためか、窓には帷が下ろされており、全体的に薄暗い。火の類も置かないようにされており、あかりが必要な時は書棚から遠い窓の帷を少しだけあげて、光を入れるのだという。
「文字が読みづらいときは執務室に記録簿をお持ちください。ここよりは明るいですから」
羅刹は紅梅に礼を言うと、雲嵐と手分けして、帝が即位してから今までのお渡りの記録を辿っていく。紅梅はああ言ったが、往復する時間がもったいない。漏れ入る日の光を頼りに、立ったまま書棚の前で記録の検分を進めていく。記録に集中すると、聴覚は遮断され、羅刹の全神経は記録簿の文字にのみ引き付けられていく。
今上帝は後宮を訪れ始めて以降、中級妃から上級妃までは、どの妃も一回ずつは訪れている。後宮内、しいては娘を送った宮廷の権力者たちの力の均衡を保つためだろう。一方で、庶民や商家、地主などから献上された下級妃への訪問は、ないに等しいようだった。下級妃から上級妃まで上り詰めた蘭花のような妃は珍しい。
だが徳妃鏡花の出産以降、帝の御渡りは上級妃に絞られるようになる。そして記録簿の内容に、羅刹は不審な点を発見した。
「雲嵐、ここ!」
薄暗い書庫に不似合いな陽気な面が間近に寄ってきたのを見て、羅刹はギョッとする。が、ここで突っ込んだら負けである。話が先に進まない。
「ここだけ紙が新しくありませんか」
「……そうだな」
「なんでそんなに反応が薄いんですか。大発見でしょう」
新しい紙にすり替わっていたのは、現東宮の母、徳妃についての記録だ。御渡りから出産に至るまでの記録が、全て新しい紙に変わっている。色味は他と変わらないように加工されているようだったが、紙の痛み具合が違った。
そして出産以降、徳妃の元にだけ帝は訪れなくなっていた。四夫人のなかで一人だけ、だ。
「この件については、俺の方で把握している。追ってお前にも話すことにはなるだろう。今は他の記録に集中しろ」
「雲嵐は知っているんですか、この部分が差し代わっている理由を」
「知っている。だが今は話せない」
そう言って別の書棚の方へ歩いて行った雲嵐は、もう羅刹と話をしようとしなかった。露骨にこの件を回避されたことが、もやもやして仕方なかったが。ここで話せないと言うならしょうがない。羅刹は次の記録に手をつけ、また記録の海の中に潜っていった。