蔡華
「人為的なものだという視点でもう一度調べてみたい、か」
「はい。亡くなられた際の状況や普段の妃の様子など、もう少し洗い直すのがいいと思います。人の手で殺した可能性を、現時点では否定しきれません」
気を取り直し、羅刹は自分の考えを説明した。
腕を組み、頷く大頭面の後頭部。
「さすが状元及第。悪霊の祟りが怖いから調査を降りたいなどと言い出されたらどうしようかと思っていた」
「そんなこと言うわけありません」
「実際そういう理由で二人ほどこの調査を降りている」
「え、ええええ?」
なんということだ。確かに宮の中の人間は信心深いものが多いが、仕事となったらそれを理由に断るなど言語道断ではないか。
羅刹は一官吏として情けなく思った。
「雲嵐にお願いがあります」
「言ってみろ」
「内朝で働く女たちの噂話と、後宮の過去の記録、死体を検分した医官への聞き込み、あと、徳妃にもお話を伺いたく思います」
「徳妃……」
一瞬、雲嵐の動きが止まったが。何か気になることでもあるのだろうか。
「唯一生きている上級妃ですので。それに徳妃の鏡花様は、三十五というご年齢でありますし、過去に同様の悪霊騒ぎが続いていたかどうかも、お分かりになるかと」
「わかった。侍女の噂については、頼りになるものに頼むとしよう。それ以外はお前が直接調べられるよう、手を回しておく」
そういうが早いか、雲嵐は立ち上がると扉の方へと向かって歩いていく。
「今、外すごい雨ですけど、帰るんですか?」
「大丈夫だ」
「じゃあせめて傘を」
「なくともなんとかなる」
それだけ言って雲嵐は外へ出て行った。去り行く背中を眺めていたが、面が前後逆なので、ずっと凝視されているような感覚になる。
「やっぱりあれ、前後直してあげたほうがよかったかな」
後宮の悪霊に加え、新しい妖怪伝説が爆誕してしまいそうだ。
◇ ◇ ◇
ふり続けた雨でぬかるんだ路は、道ゆく人々の足元を汚していた。自宅から皇城が遠い羅刹は、他の官に比べて汚れが激しく、登朝後も靴に付着した泥を取るために難儀した。
泥を拭き終え、吏部の執務室に向けて外廊下を歩いていると、前方から書類を抱えた人が歩いてくる。背中まである錦糸のような結い髪が、馬の尾のように揺れているのが見えた。
あ、たしか皇帝付きの宦官の……蔡華さんだっけ。
頭に被る黒い幞頭には複雑な紋様が入っており、宦官服も他の官が着ているような薄鼠色ではなく、紺色の胡服を着ている。これだけ上等な衣服を与えられているということは、さぞ帝に重用されているのだろう。
すれ違おうというところ、蔡華と目があう。すると神から与えられた極上の美貌を持った男は、こちらに向けて柔らかく微笑んだ。
「君は、柳羅刹だね?」
「おはようございます。お名前を覚えていただいているとは恐縮です」
「状元だもの。もちろん覚えているさ。主上も褒めていらしたよ。その若さで状元とは素晴らしいって」
丸みを帯びた柔らかい声だ。宦官は概して声が高いが、大人になってからイチモツを切り取られた場合、不自然な裏声になる場合が多い。
これだけ美しい高音になるということは、子どもの頃に宮刑に処されたのかな。
書物で読む分には何も感じなかったが、本人を前にするとなんとも言えない気分になる。
子ども時代に宦官になったとあれば、親に売られたか、それとも。
羅刹の記憶から、一冊の史書が浮かび上がる。書かれた内容のうち、蔡華の容姿に該当する一族についての記述が抜き出された。
『特徴的な錦の髪と、抜けるような青い瞳を持つ一族、燕氏。謀反を疑われ、国から逃げた燕の一族は、禹国の外れにある森に集落を作るが、禁軍により一族郎党処分された』
「どうしたんだい?」
蔡華に顔を覗き込まれ、羅刹は目の前の現実に引き戻される。
「あ、いえ。主上にそのようにおっしゃっていただけるとは、喜びの極みで……感動のあまり言葉を失っておりました」
「うーん、そんなふうには見えなかったなあ」
楊枝がいくつも乗りそうな長いまつ毛で瞬きをしながら、彼の口元が弧を描く。
「状元だからっていじめられているのかな。君、小さいし、弱そうだし。気の強い同僚や先輩に目をつけられているんじゃないの」
パッと李漢林の顔が浮かぶ。あれ、もしかして。
あのとき投げられた扇子の要には、皇族の紋が彫られていた。皇帝に徴用されている彼なら、扇子くらい下賜されていてもおかしくない。
「困ったら相談しにおいで。力になってあげるから」
そう言って蔡華は羅刹の頭を撫でると、「じゃあまたね」と言って微笑み、風のように去っていった。
「人気があるのも頷ける。って、お礼言いそびれちゃった」
また話す機会があったら言わなければ。そう心に決めた羅刹だった。