雲嵐の素顔
「雲嵐! ええっ、ちょっと大丈夫ですか?」
そういえばさっき怪しいやつを追って紫水宮から飛び出して行った。一応こんななりでも皇帝の食客ではあるし、誰かに命を狙われているのかもしれない。もしや侍女に出された茶に毒が盛られていたとか。
肩を叩き、声をかけ意識を確認してみるも反応がない。
「もしや、もう死……いや、そんなまさか」
羅刹の顔から血の気が引く。
荒屋に不気味な面を被った女装男の変死体。瓦版が喜びそうなネタである。
すでに十分幽霊屋敷の様相であるのに、このままでは本物の心理的瑕疵物件になってしまう。
いや、まだ希望はある。仮面をかぶっていたせいで、体調が悪くなっただけかもしれない。
「と、とりあえずこの面、外さなきゃいけないよね。息苦しくて気が遠くなったのかもしれないし。そうでなくとも苦しいだろうし」
羅刹はかぶり面に手をかける。一気に引き抜こうとして、ピタリ、と手が止まった。
待てよ…。
出会ってからこれまでずっと、この男は面を被り続けてきた。
奇異の目に晒されようとも、それをものともせず闊歩する様子を見て、そういう変人なのだろうと決めつけていたが。もしかしたら、それなりの理由があってのことなのかもしれない。
自分の顔を並々ならぬ不細工だと思って恥じているのだろうか。
それとも羅刹の咄嗟の作り話のように、ひどい火傷か怪我でも負っているのだろうか。
そう考え始めたら、なんだか緊張してきてしまった。
見たら失神するほどの酷い顔だったらどうしよう。
「いや、でも具合が悪いとしたら放って置けないし」
躊躇う気持ちを振り払い、羅刹は面を引き抜いた。
張り子の面というだけあって、その大きさの割にすこぶる軽い。表面はザラザラとしていて、乾いた糊の感触がする。
現れた雲嵐の素顔を見て、羅刹は拍子抜けした。
「あ、あれ……?」
火傷はないし、傷もない。
不細工でもなければ、死んでもいない。
むしろ、そこに横たわる人は、これまで見てきた誰よりも美しい男だった。
「沈魚落雁っていうのは、こういう人のためにあるのかもなぁ」
ほう、と息をつき、まじまじと観察してしまう。
禹国の人間は顔に凹凸の少ないものが多い。だがこの人の鼻は立派で、筋が通っている。切長の瞳には長いまつ毛が生えていて、唇の形も良い。面を被っていたせいで上気した頬は、男をも魅了しそうな色気に溢れていた。
でも、ものすごく疲れた顔をしている。
彼の目の下には、くっきりと隈ができていた。微かだが眉間には、皺の跡が残っている。死体にはなっていなかったが、死んだように寝ている。男が下手な変装で、しかもいかにも蒸しそうな面を被ったまま半日後宮を回ったのだ。緊張の糸が切れた瞬間、寝てしまうのも無理はないように思われた。
お金には困っていなさそうだけど、案外苦労人なのかしら。
このままだと寒かろう、と、薄がけをかけてやったところで、お湯が沸いているのに気がついた。
「しまった、貴重な水が吹きこぼれる」
慌てて土間に降りると、鍋をおろし、用意していた急須に注ぎ入れた。茶を蒸らしつつ湯呑みを準備しながら、チラリと後ろを振り返る。
隙間風が障子をがたがたと揺らし、いつ倒壊してもおかしくないような家で女装の麗人が横たわる図に、羅刹はそこはかとない居心地の悪さを覚えた。
綺麗だけど。なんか家にいると落ち着かない顔だな……。
雲嵐には悪いが、少々隠させていただこう。
ふたたび面を被せたら寝づらいだろうと思い、羅刹は手近にあった綿布を、そっと雲嵐の顔にかけておいたのだった。