第3話 乱れる魔力
夜が明けても、心は晴れなかった。
リアーナは白磁のティーカップを手にしたまま、窓の外をぼんやりと見つめていた。外では庭師が手入れをしている。澄んだ空、整えられた薔薇の垣根、穏やかな風。
なのに、喉の奥に何かが刺さったような、痛みがあった。
「……魔力が、ざわめいている」
呟いた声は、誰にも届かない。
創造魔法は本来、非常に安定した“聖”の系統だ。リアーナの魔力は常に澄んでおり、乱れを見せることはなかった。
けれど数日前から、胸の奥で何かが軋むような違和感があった。
ちくちくと、内側から刺すような痛み。
まるで、魔力そのものが**“拒否反応”**を起こしているかのようだった。
「リアーナ様」
扉を開けて入ってきたのは、セレナだった。
淡いピンクのドレスに、柔らかなブロンドの髪。昔と変わらない、可憐な雰囲気をまとっている。
今は王宮付きの魔導補佐官という地位にあり、アゼルの補佐を務めている。もとはリアーナの侍女だったが、その聡明さと優しさで重用されてきた。
「お加減、悪いのですか?」
ティーカップを持つリアーナの手をそっと包み込むようにして、セレナが覗き込む。
その瞳は心配そうに揺れていた――けれど、どこか、奥底が見えない。
「少し……魔力の巡りが、おかしくて」
「まあ……それは大変。ご無理なさらないでくださいね」
セレナは柔らかく微笑み、手を引っ込めた。
「リアーナ様のような方は、この国にとってとても大切なお方ですから」
そう言いながら、ティーカップをそっと引き取り、淹れ直す準備を始める。
ごく自然な仕草だった。慣れた手つきで、気遣いに溢れた行動――のはずなのに。
リアーナの背筋が、一瞬だけ、凍るような感覚を覚えた。
理由は分からない。
でもセレナの言葉が、まるで**“聖女は壊れないでくださいね”**と囁くように聞こえたのだ。
その違和感を、まだこの時のリアーナは、気のせいだと思い込もうとした。
けれどそれは、ほんの始まりにすぎなかった。
この日を境に、リアーナの魔力は急激に乱れ始めた。
「これは……本当に、私の魔力なの……?」
リアーナは、鏡の中の自分を見つめていた。
指先に浮かぶ淡い光――本来は白銀に輝くはずの創造魔法が、わずかに黒く濁っていた。まるで何か不純なものが混ざっているかのように。
魔力の調律が崩れている。
呼吸が浅くなり、魔法の詠唱にも集中できない。
魔導管理局に相談したが、「過労でしょう」「精神的な問題では?」と取り合ってもらえなかった。
父・ゼノン侯爵に手紙を送っても、返ってきたのは数行の無機質な文だけ。
“魔力の乱れは一時的なもの。自省を怠るな”
それは、もはや助言ではなかった。ただの命令だった。
夫のアゼルにも話した。
「最近、魔力の感覚がおかしくて。まるで誰かに触られているような感覚なの」
アゼルは驚いたような顔を見せて、すぐに微笑んだ。
「心配しすぎだよ。君は疲れているんだ。少し休むといい」
それだけだった。
心配はされた。けれど、信じてもらえなかった。
リアーナは、何かが狂ってきていることを確信しながら、同時にそれを誰にも証明できないことに、強い恐怖を感じていた。
その夜、リアーナは書庫へ向かった。
自分の魔力の異変を確認するため、過去の創造魔法の記録を読み直すため。
書架の影に、誰かの気配があった。
「……リアーナ様?」
振り向くと、セレナがそこにいた。
淡い光に照らされたセレナは、まるで迷い込んだ少女のように見えた。
「何かお探しですか? お手伝いしましょうか」
「……どうしてここに?」
「アゼル様に書類を届けに来たのです。でも、書庫の灯りがついていたので……」
そう言って微笑むセレナの手には、小さな革表紙の本が握られていた。
タイトルは――『魔力構造と感応の応用について』
リアーナが探していたのと、同じ主題の本だった。
胸の奥に、冷たいものが落ちる。
セレナはそっと近づいてくる。
「……リアーナ様。何か、お困りのことがあるのですか?」
その声は、優しかった。
あまりにも、完璧に優しかった。
だからこそ、リアーナは――答えられなかった。
「いえ、何でもありません」
笑ったのは、リアーナのほうだった。