その9 ショック療法
俺と天使は、都営住宅の集まる敷地内に立っていた。
360度、どこを見回しても、その建物ばかりだった。建てられたばかりで、どれも真新しかった。
「おい」と俺は、隣にいる天使に言った。
「何や」と天使は答えた。俺たちの真正面にある建物の上階を見据えていた。
「見せたいもんって、何だよ」と俺は尋ねた。「もう三十分も経ってるぞ」
「まぁ待てや」と天使は言った。「そろそろや」
「ここで人が死ぬ」と天使は続けた。
「えっ」と俺。
不意に「パーンッ」と、何かが破裂するような音が辺りに響いた。
その音のしたほうへ目を向けると、人が俯せに倒れていた。
辺りが暗く、かつ遠目でわかりづらかったが、どうやら若者のようだった(といっても、俺よりも年上のようだったが)。鼠色のパーカーを着ていた。
「救急車っ!!」俺はジーンズのポケットから、スマートフォンを取り出した。119番通報をしようとした。
「やめとけ」と天使が俺を制した。「それに呼ぶんやったら、警察や」
俺は、その男のほうをまた見やった。彼は俯せになったまま、微動だにしなかった。
「いくで」と天使は着物を翻らせ、敷地の外へと向かって歩き出した。「あの音やったら、もう警察は誰か呼んどる。もたもたしとったら第一発見者にされて、事情聴取されてまうで」
俺は、倒れたまま動かない男のほうを振り返ったあとで、天使の背中を追いかけていった。
*
俺と天使は、俺の住む町の駅から電車に乗って、神奈川県へと向かった。
そして、神奈川県の某駅に電車が着くと、天使は車内から降りていった。俺もそのあとに続いた。
俺と天使は、ホームのベンチに座った。そのベンチは、向かいのホームに面していた。
「おい」と俺は隣の天使に呼びかけた。
「なんやねん」
「今度はなんだよ?」
「待てっちゅうねん」と天使は答えた。「せっかちなやっちゃなぁ」
向かいの上りホームに、30代ほどの男性が立っていた。スーツ姿で、髪をきっちりと分けていた。
うつむき加減だった。どこか黒い影を背負っているようにも見えた。
「まさかまた――」俺は言った。
天使は何も答えなかった。
俺はベンチから立ち上がった。そして階段へと向かって走った。まだ間に合う――
線路の上に架かる連絡通路を駆け抜けた。横目に、こちらに向かってくる電車の灯りが見えた。
俺は階段を駆け下り、上りのホームへと出た。
そのとき、耳をつんざくような汽笛が聞こえた。電車がホームへと入ってくるところが見えた。スピードを落とす気配がない。急行列車だ。
俺は、スーツの男に向かって全力で駆けていった。ホーム横に突き飛ばすつもりだった。
だが遅かった。スーツの男は、フワッと、ホームの上から線路へと身を投げた。すべてがスローモーションのように見えた。
地面を震わすほどの、急ブレーキの轟音が、辺りに響き渡った。
不幸中の幸いとも言えることは、俺が、その男の血も死体も見ずに済んだことくらいだった。俺がいたところからの角度と、男が電車に飛び込んだタイミングとが良かったのだ。
*
「信じる気になったやろ」と天使は言った。
「まぁな」と俺は答えた。「もっと、マイルドなやり方で教えてもらいたかったけどな……」
電車で、俺の住む町に引き返した俺と天使は、夜の住宅街を肩を並べて歩いていた。
「悪いけど、あまり時間があれへん」と天使は言った。「ショック療法ってやつやな」
「あんたの予言は信じるよ」と俺は言った。「俺が一年後に死ぬっていうな――。で、俺はあんたの仕事を引き受ければいい」
「そういうことや」
「そうすれば、俺の命は助かる」
「せや」
「具体的には、どう動けばいい?」
「こっちから、君に連絡する」と天使は言った。「君は指定された日時に、指定された場所に行く。そして、ターゲットの人間の命を救う」
「シンプルだな」と俺は笑った。「アルバイトよりもよっぽどラクだ」
「思っとるよりも、キツいと思うで」天使は呟くように言った。「いろんな意味でな」
「連絡の手段は?」と俺。「まさか『LINE』とかいうんじゃないだろうな?」
「実は君のほかに、もう一人仕事を頼んどるやつがおる」と天使は言った。「君にはそいつと組んで仕事してもらいたい。ほんで、そいつを連絡係にする。そいつは有能な霊能者で、神界におる俺らとコミュニケーションが取れる」
「そいつの名前は?」
「時枝璃々珠」と天使は答えた。「君と同年代の女の子や」
「時枝……」と俺は言った。
「何や、知っとるんか」天使は意外そうな顔で言った。「ほなら話が早いわ」
どうやら、あいつとは本当に縁があるらしい。運命の女かどうかまではわからなかったが……
「っちゅうわけで、時枝から君に連絡が入る」と天使は続けた。「何か追って伝えなアカンときは、彼女を通して君らに伝える。君から俺に何か質問があるようやったら、彼女に言付けてくれ」
「ほなまた――」天使はそう言うと、姿を消した。やはり俺が目を瞬いたあいだにだった。
やれやれ、と俺は顔をしかめた。なんでこんなことになっちまったんだろうな……