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その5 時枝璃々珠

 俺と黒いドレスの女は、住宅街の片隅にある喫茶店に入った。レンガ造りで、壁面に蔓草を這わせてある趣のある店だった。

 俺は凛花をそのまま帰らせた。いかにもついてきたげだったが、制した。

 この女の素性が、まだ知れなかったからだ。それに、この女が用があるのは、俺一人だけのようだったから。

 俺と女が席につくと、マスターとおぼしき、品のいい老人がやってきた。俺も彼女もコーヒーを頼んだ。

 老人は少し驚いたように女のことを見て、それから優しい笑みを浮かべた。それはどちらかと言うと営業的な微笑ではなく、素の微笑みのように見えた。

 「話ってなんだ?」俺は女に尋ねた。

 「いきなりね」と女は答えた。やはり無表情だった。

 「こっちのセリフだ」と俺は答えた。「出会い頭に『話がある』だなんて——」

 「わたしはなるべく直感に従うことにしているの」と女は言った。「運命の指先が、わたしの背中を押したのよ」

 「はぁ?」と俺。

 「それにわたしとあなたは、赤の他人ではないから」と彼女は続けた。

 「赤の他人だろ」と俺は言った。「俺はアンタのことなんか知らない——」

 「むかし会ったわ」と女。

 「むかし?」と俺。「まさかあの朝の、町角でのことか?」

 「それ以前からよ」と女は答えた。まっすぐにこちらを見据えて。「古代ギリシャでも、東ローマ帝国でも、それから帝政ロシアでも……」

 「はぁ?」と俺。「ど、どういう——」

 老人のマスターが、コーヒーと紅茶をお盆に載せて、俺たちのいる席にまでやってきた。それから丁寧に、それらをテーブルの上に置いていった。

 「ごゆっくり」とマスターは微笑み、踵を返してそこから離れていった。

 「どういうことだよ、その古代ギリシャとか東ローマっていうのは——」俺は熱いコーヒーに口をつけた。俺はハッとした。美味いコーヒーだった。

 「前世からの縁があるってことよ……」彼女も、湯気立つカップを口許に持っていった。一瞬、彼女の目許が柔らかくなったように見えた。「わたしとあなたは、運命の人同士なのよ」

 「俺とアンタが?」

 「ええ」と彼女は答えた。「わたしたちは、赤い糸で結ばれているの……」

 「帰る」俺は机の上の伝票を手にとった。ゲッ!となった。た、高い……。財布のなかにいくら入ってたっけ……?

 「ここは、わたしが払うから心配いらないわ」と彼女は言った。「それより、デザートも注文しようと思うのだけれど、あなたは?」

 「じゃあ、同じので……」俺はふたたび椅子に腰を据えた。なんだか買収めいたことをされてしまった……。

 彼女はガトー・ショコラを二皿注文した。 

 「何の根拠があって、そう思うんだ?」と俺は訊いた。「つまり、俺とアンタが、そういう関係だって――」

 「わたしにはわかるのよ」

 「何が?」

 「人の波動が」と女は言った。「あなたの波動がわかるの。懐かしいというか、馴染みがあるというか……。あなたのそれが、わたしのそれと共鳴したのよ」

 「俺はなにも感じないが?」

 「あなたには、霊的な力が弱いから」

 「ふぅん」と俺。それじゃ、なんとでも言えるよなぁ……。

 マスターがやってきて、俺と彼女の前にガトー・ショコラを順番に置いていった。ケーキの上には生クリームが載っていた。

 あの白髪のマスター、こちらの話が聞こえているはずなのに、怪訝な顔一つしない……。それがプロの姿勢なのか、それとも単に、耳が遠いだけなのか。

 「それで、俺とあんたがそういう関係だったとして、それがなんだっていうんだよ?」俺はコーヒーを、一口含んだ。やっぱり美味しい。

 「結婚しましょう」と女は言った。

 俺はコーヒーを文字通り噴いた。

 マスターがやってきて、テーブルの上をふきんで拭きとった。俺は彼に詫びた。彼女のほうは、その様子を黙って見ていた。

 「結婚?」俺はナプキンで口許を拭いながら訊いた。

 「厳密には、結婚前提でお付き合いしましょうということ」

 「同じだ、同じ!」と俺。「断る!」

 「なぜ?」と彼女は真面目な顔つきで尋ねた。どこか心外そうな感じが、その口調からは窺われた。

 「昨日、今日会ったヤツと、いきなり結婚前提の付き合いなんてできるか!」

 「わたしがあなたの運命の女だったとしても?」と彼女は言った。

 「あたぼうよ!」と俺。「俺はそんなもの、端から信じてないからな!」

 沈黙が流れた。俺は黙ってケーキを食べた。小ぶりだけど、コーヒー同様に美味かった。甘さ控えめなところがいい。

 「そう……」と彼女は言った。心なしか、どこか沈んだ調子で。「それなら、今日のところは退くとするわ」

 「『今日のところは』って、また俺のところに来るつもりかよ?」

 「ええ」と彼女は答えた。「わたしの運命の人だもの。そう簡単には、身を引けないわ……」

 「勝手にしろよ」俺はコーヒーを飲み干し、椅子から立ち上がった。「ケーキとコーヒー、ごちそうさん」

 「待って」と彼女は胸ポケットから、何かを取り出した。小さな銀色のケースだった。

 彼女はそこから名刺を一枚取り出し、それを俺に手渡した。

 俺はその名刺を見やった。そこには「時枝霊能事務所」と書かれていた。その隣には「霊能者・時枝璃々珠」とあった。

 「霊能者?」俺は彼女の顔を、まじまじと見て言った。

 「隣町で事務所を構えているわ」と彼女は答えた。「小さな店だけどね」

 「もし何か霊的なことでお困りごとがあったなら——」と彼女は続けた。「その電話番号かメール・アドレスに連絡をしてもらえるといいわ。何か力になれるかもしれないから」

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