最終話 旅立ち
三月に入った。
終業式が近づいていた。
俺と凛花は肩を並べて、いつもの道を登校していた。
刺すようだった風は柔らかくなり、春の匂いが微かに帯び始めてもいた。
特に後遺症もなく彼女は退院した。記憶喪失は戻らないままだったが――
俺の命は、もう残り僅かだった。
天使のオッサンが、俺に死の宣告をしたのが去年の五月ごろだった。
つまり俺の命は、あと二ヶ月ほどしか残されていないのだった。
やり残したことをやっておこうと思っても、特に何も思いつきはしなかった。
結局、俺にとって大事なこととは、日々の日常なのだった。代わり映えのしない俺の人生なのだった。
普通にメシを食べ、学校に行き、そして隣に凛花がいる――。それだけで充分満たされていたのだ。
きっと俺は、あまりに多くを求め過ぎていたのだ。
死ぬ間際にそのことに気づくだなんて皮肉めいてもいたが、誰に文句をいえばいいのかはわからなかった。強いて挙げるならば、過去の自分自身に対してなのだろう。「人生は有限なのだ」ということを、意識せずに日々を生きていた自分が悪かったのだ……
「ねぇ、なんで最近そんなに暗いの?」と隣の凛花が訊ねてきた。「キャラ変か何かなの?」
「期末テストが散々だったからだよ」と俺は彼女のほうを見ずに答えた。
期末テストがボロボロだったのは、本当のことだった。もう勉強する理由なんてなかったからだ(勉強したところで結果は大して変わらなかっただろうが……)。
自分がもう死ぬとわかっていると、なんだかこの世のあらゆることを赦せるような心境にもなってくるのだった。
たとえば、道端で誰かから舌打ちをされようとも意に介さなくなるのだった。少し偉そうな物言いかもしれないけれど、まるで世界や他者を俯瞰して眺めているかのようだった
もう自分は半分、あちら側の住民になっているのかもしれない――
町角を曲がると、見慣れた姿が目に入った。
天使のオッサンだった。腕組みをして、道の真ん中で突っ立っていた。
鞄を提げた会社員が、オッサンのことを怪訝そうに眺めながらも、小走りでそこを素通りしていった。
「ええ身分やなぁ、ガールフレンドと登校やなんて」と天使がニヤッと笑った。「羨ましい限りやで……」
凛花が後退りして、俺の背中に隠れるようにする。たぶんオッサンは不審者だと思われている。
「早いお迎えだな?」俺はその茶番をスルーしていった。
えっ?! 知り合いなの? と凛花がさらに驚く。
ずいぶん余裕やないか、と天使がいった。「せやけど『お迎え』に来たわけとちゃうで……」
「じゃあ、何しに来たんだよ……」
「ミッションや」と天使が不意に真顔になった。「また、あっちでトラブルが起きてな……。こないなことは百年に一度あるかないかで、立て続けに起きるんは珍しいことなんやけどな」
「ほんで、相変わらず人手が足りひんのや」と、彼は続けた。「また君の力を借りたいんやけど、どうや?」
「もしかして、それで俺の命は――」
「そういうことやな」と天使はいった。「断る理由はあらへんと思うで?」
やるよ、と俺は答えていた。
そう来なアカンな、と天使は笑った。
「ねぇ、何の話なの?」と置いてけぼりを喰った凛花が、俺と天使を交互に見ながら訊ねてくる。
天使が着物の懐から、例のピンク色の錠剤を出して、それを俺に手渡してきた。
「今回は、あっちの世界に来てもらうで」と彼がいった。
「この前、俺が行った場所か?」
ちゃうちゃう、と天使は答えた。「その上のほうにある世界や」
今晩そいつを呑めや、と天使はそれだけいうと背中をこちらに向け、そのままスッと消えてしまった。
俺はビニールに入ったピンクの錠剤を握りながら、ホッと胸を撫で下ろしていた。なんだかんだで、俺はまだ生に執着していたのか……と気がついた。
「ねぇ、今の何だったの?」と凛花が俺の片腕を揺さぶってくる。「なんで、あの人消えちゃったの? あとその薬はなに?」
あとで説明するよ、と俺は答えた。
とにかく、と思った。俺の人生はまだ続くのだった……。今後の俺の働き方次第だったが。