その31 長いお別れ
年明けに、コートのポケットに両手を突っ込んで、一人で人気のない住宅街を歩いていると、見覚えのある姿を見かけた。
時枝だった。
時枝璃々珠――
「しばらくぶりね」と彼女がいった。相変わらずニコリともしない。
「ああ」と俺は応じた。「あのとき以来だな……」
彼女は、リボンつきの黒い帽子に、黒い厚地のコートという姿だった。やはりゴスロリ・ファッションだった。そのなかで、彼女のほっそりとした色白の顔が、浮き立つようになっている。
むかしTVで見た、ロシア絵画の女性を思わせた。
彼女と逢うのは、あの竜巻が起きた日以来だった。
「どうかしら」と時枝がいった。「少しお茶でも?」
ああ、と俺は頷いて応じた。「俺もちょうど、お前と話したいことがあったんだ」
いってるそばから、凛花との約束を破るようだったが、どうしても時枝には伝えなくてはならないことがあったのだ。
それに、彼女はまだ入院中だった。あのときみたいに、上空から見られているということもあるまい。
*
近くにある、個人経営の喫茶店に俺たちは入った。
奇しくもそこは、以前俺たちが入った店だった。そこで俺は、彼女から色々と講義を受けたのだった。
そして、時枝は俺のことを「わたしの運命の人」だと告げたのだ。
俺と時枝は、テーブルを挟んで向かい合っていた。時代もののテーブルだったが、綺麗に磨き込まれている。
マスターが注文を取りに来て、俺も時枝もコーヒーを頼んだ。
「お前、あれからどうしてるんだ?」と俺は彼女に訊ねた。連絡先を知っているとはいえ、お互い、気軽にやり取りをするという仲ではなかった。
「新しいアパートを借りたわ」と彼女は答えた。彼女のコートの下は、やはり黒いゴスロリ・ドレスだった。
「よく簡単に借りられたよな……」よく考えたら、彼女は俺と同じ歳なのだ。
「師匠から借金をしたわ」と彼女は無表情で答えた。
師匠……と俺は思った。親からではないのか。
白髪のマスターがやってきて、俺と時枝の前に、コーヒーを二つ置いていった。
「ごゆっくり」と営業用の微笑を見せて、彼はカウンターのなかへと戻っていった。
「師匠って、お前の霊能の?」と俺はコーヒーを一口飲んだ。やはり美味いコーヒーだった。
「ええ」と彼女もコーヒー・カップを口許に持っていった。彼女の能面のような顔つきが、そのときだけは一瞬、微かに柔らかになるのだった。「子供の頃から、彼女のもとで修行を積んでいたの」
「ところでお前、両親は……」
いないわ、と彼女は答えた。「二人とも交通事故でね……。わたしが小学校に上がる前だった」
「そうなのか……」俺は取り繕うように、コーヒー・カップを口につけた。
「謝らないのね?」と時枝がいった。
「俺も両親がいないからな」と答えた。「こういうとき謝られると、どうしていいかわからなくなるんだよな……」
俺と時枝は黙ってコーヒーを飲んでいた。
「わたしのいた児童施設の先生に、少し霊能の心得があったのよ」と時枝はコーヒー・カップから顔を上げていった。「その人が、わたしのその才能を見出して、わたしをある女性に紹介してくれたの。その人がわたしの師匠となった人――」
それで、中学を出たあとで、しばらく師匠のもとに身を寄せてから独立したの、と彼女は続けた。「わたしはまだ駆け出しだから、それほど収入はないけれど、とりあえず日々の生活に困ることはないわね……。あるいはこういうのも、何かしらの霊力が働いているのかもしれないけれども」
ここで時枝は、俺にコーヒーとケーキを奢ってくれたけれど、あれだって彼女には痛かったのかもしれないな、と思った。顔に出さないから、そんなことは想像もつかなかったのだ……
彼女も日々を生きることでいっぱいいっぱいなのだろう……。そのゴスロリ・ファッションだって、自分の身を守るために着ているのだった。
だけど、それでも……
それでもなのだった。
「あなた、わたしに話したいことがあるといっていたけど?」と彼女が俺に訊ねた。
「ああ……」と俺は応じた。
ハッキリさせておこうと思ってな、と俺は続けた。「お前ここで、俺を運命の人だといっていたよな?」
「いったわ」と時枝が答えた。
「今でもそう思うのか?」
「思うわ」と彼女。
「仮に、俺とお前がそうだったとしても」と俺はいった。「お前とは、そういう関係にはなれない」
時枝は黙って、静かに俺を見ていた。
「凛花って子よね」と彼女はいった。
「ああ」と俺は答えた。
それなら、と彼女はいった。「仕方ないわね……」
「やけにあっさりと身を引くんだな」と俺は拍子抜けした。彼女らしいといえば彼女らしいのだったが……
「凛花という子だって、あなたの運命の人なのよ」と時枝がいった。
「俺には、運命の女が二人いるってことになるな?」普通そういう人って、一人に限られるんじゃないのか……
「わたしと凛花という子では、少し性質が違うのよ」と時枝が説明した。「わたしは初めから、あなたと一緒だったの。わたしとあなたは同時に創られたの……。だけど、あの凛花という子は、あなたから生まれたのよ」
「はぁ?」と俺は眉をひそめた。
そうなのだから、そうとしかいえないのよ、と彼女は残っていたコーヒーを飲み干した。
「あなたはあの子の父親なのよ」と時枝は続けた。「生物学的にではなく、魂の上でのね……」
俺は黙っていた。
そういえば俺は、凛花に対して、女というよりも、まるで妹や娘に対して接しているかのような感覚がこれまでしていたのだった。妹も娘もいないから、実際のその感じはわからないのだったが……
だから、彼女に対して、一種の近親相姦的な罪悪感を覚えてもいたのだった。
俺はその感情に対して、これまでずっと気づかないフリをしてきたのだ。
「ようするに、あなたと凛花という子の関係は、旧約聖書に出てくる、アダムとイヴのそれなのよ」と時枝がいった。「あるいは、プラトンの『饗宴』における、神様によって切り分けられた男女のそれなの。あなたがオリジナルなのよ――」
だから、あなたたちは、どこかのタイミングで、統合を果たさないといけないのよ、と彼女は続けた。「少なくともこの世では――肉体を纏ったこの世界では、あなたたちは『二人が一人になり、しかも二人でありつづけるというパラドックス』を起こさなくてはならないの。エーリッヒ・フロムがいうようにね……」
もし、わたしとあなたが一緒になれる日が来るとすれば、あちらの世界で、あなたたち二人が完全に一つになってからなのかもしれない、と彼女はつけ加えた。
ついていけねぇ、と俺も冷たくなったコーヒーを飲み干した。一体なんなんだ、その世界観は……
聖書? 饗宴? アダムとイヴ? 男女――?
だけど、俺はその記憶を知っているはずなのだった。
あの幽現界へと足を踏み入れてから、それらの記憶を全て思い出していたのだった。こちらの世界に戻ってきてから、俺はそれらの記憶を、無意識の底へと封印していたのだ――。こちらの世界の自分の意識では、俺はそれらに耐えられそうになかったからだ。
会計を済ませたあと(今回は俺が時枝を奢ることにした)、その店の前で、彼女と別れた。
低く垂れこめた厚い灰色の雲からは、雪が散らつき始めていた。
「さようなら」とコートを羽織った時枝は、俺に背中を向けていった。「またいつかどこで――」
愛おしい人と、彼女は最後に小さくいい添えた。
時枝の背中が、町の角に消えるまで、俺は彼女のことをずっと見ていた。
彼女は一度も後ろを振り返らなかった。