その30 帰還
目を覚ますと、朝だった。
厚いカーテンの隙間から、朝陽が漏れていた。
俺のかけ布団の上に、一筋の光の線が伸びていた。
俺は起き上がって、カーテンを開け、窓を開いた。
そして朝の冷たい清浄な空気を、肺のなかいっぱいに吸い込んだ。
心のうちに、何か達成感があった。何か身体の細胞すべてが、静かに喜んでいるかのような感覚がした。
キッチン・テーブルを挟んで、姉と朝食をとっていたとき、家の電話が鳴った。
姉が立ち上がって、廊下まで歩いていき電話を取った。
電話を終えると、姉がキッチンに戻ってきて、それからいった。
「伊吹さんからだった。凛花ちゃん、目を覚ましたって――」
*
「何も憶えてないの」と彼女はいった。
「何も?」と俺は訊ねた。
「なんにも」と彼女は笑った。あっけらかんとした笑顔だった。
凛花が入院する病院に、そのとき俺はいた。
凛花はベッドの上で身を起こしていて、俺はその傍の丸椅子に座っていた。
「記憶喪失ってことか?」
「かもしれない」
「一体いつから……」
いつからだろう?と彼女は記憶を思い起こすように、顔を傾けて瞳を斜め上へと向けた。「あーちゃんと、世界堂に出かけたじゃん? あの辺りからプッツリと記憶が途切れているの……」
さっき病院のロビーで、凛花の母親から余計なことを口にしないでね、と釘を刺されていたのだった。ようするに、例の通り魔事件のことだ。
遅かれ早かれ、そのことに気づくのかもしれないけれど、確かに今はそのことは黙っておいたほうがいいのだろう――。少なくとも、それを知るのは退院後しばらくしてからでもいい。
「なぁ」と俺は凛花にいった。
「なぁに?」と彼女が顔を傾けた。彼女の髪が微かに揺れる。
「夢を見なかったか?」と俺は続けて訊ねた。
「夢?」
「眠っているあいだにさ……」
どうだろう……と彼女はまた記憶を思い返すような顔をした。今度はどこか難しい顔をして、細く長い指を、口許にあてながら。
「あっ」と彼女は口を開け、目を大きくした。
「どんな夢だった?」と俺は身を乗り出した。と同時に、余計なことを思い出させただろうか、と不安にもなった。
「あーちゃんが出てきたよ」と彼女は俺のほうに向き直っていった。
「それで?」と俺。
「あーちゃんが巨大化してた」と彼女はいった。
「はぁ?」巨大化……
「でね、東京の街をゴジラが襲うの」と凛花はどこか興奮しつつも説明した。「ゴジラが口からビームを吐きながら、街を次々と破壊していくのね……。それで、大きくなったあーちゃんが、そのゴジラと対決するの」
*
「はぁ……」と俺は、病院の廊下にある休憩スペースで、紙パックのカフェ・オ・レを、ストローで啜っていた。
それは安堵から来る溜め息だった。
「おぅ」と背後から声がした。聞き憶えのある声だった。
「あんたか」と俺は後ろを振り返らずに応じた。
「うまくいったみたいやな」と天使がいった。髪が薄くて、暗緑色の着物を着ていて、ジョン・レノンみたいな眼鏡をかけている天使だ。
「あんただろ?」と俺は訊ねて、カフェ・オ・レを飲み干した。「凛花を記憶喪失にしたのは……」
「せや」と天使はこちらに回ってきて、俺の隣のソファに腰を下ろした。「あんな記憶、邪魔やろ? それに、あっちの世界の記憶を持ったままでおられると、俺らのほうでも色々不都合なことが起きかねへんからな」
あの世界で、どこか虚ろになっていた凛花の顔を、俺は不意に思い出した。
たぶん、凛花は自分のなかの様々な記憶や感情に耐えかねたのだろう。それらを彼女は、自分自身から切り離していたのだ。彼女は虚ろな人間になっていた……。あいつはそれほど強い人間ではないのだ。
「もしかしたら、借りができたのかもな」そう俺は続けた。もちろんいい意味でだった。
べつに貸し借りなんてあらへん、と天使は答えた。
「君のことを、俺はけっこう気に入っとるんやけど」と天使は続けていった。「ただ――君の命までは、なんとかすることはでけへん。それは俺の権限を大きく超えたことやからな……」
せやから、悪う思わんといてくれ、と彼は続けた。
別に構わない、と俺は立ち上がって、空の紙パックをゴミ箱へと捨てた。
それにそれほど、死が怖いものだと思わなくもなっていたのだ。
死んだって、自分の魂は残るのだということを、体験として理解していたからだった。
たとえ、それが夢だったとしても、やはり死に対する恐怖は拭い去られていた。
天使がいなくなったあとで、俺はソファから立ち上がって、近くの窓から外を眺めた。
気持ちのいい秋晴れの空が広がっていた。住宅街の向こうには、大小様々なビル群が霞んで並んでいて、風鳴りと車の走行音とが入り混じった音が彼方から聞こえていた。
あの世界にいた凛花のことを思い出していた。
あの記憶を持った凛花はどこへ消えてしまったのだろう?と考えた。
つまり、あの日俺と世界堂にでかけたあとの記憶を携えた彼女は――
この秋空へと、煙のように消えていってしまったのだろうか。
それはきっと、彼女の魂の一部だったのだ。彼女の人格の一部、あるいは思念の一部だった。
俺の胸が少しだけ痛み、そして締め付けられるような感覚がしていた。そこには、微かな切なさが伴っていた。
それから、少しだけ懐かしさがあり、どことなく不思議な感じがあった。
「二度とわたしのことを裏切らないで……」
あの世界にいた凛花の言葉を、俺は思い出していた。
裏切ったことなんて、一度もないんだ、と俺は心のなかでいった。これまでも、それからこれから先も――
全て誤解なのだ、といいたかった。
それは、病室にいる凛花にというよりも、消えてしまった彼女の一部に対して向けた言葉だった。
未来のことはわからないけれど、それだけは確かなことのように思えるのだった。
とはいえ――と俺は思った。俺の命はあと半年ほどしか残っていないのだったが。