表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
29/32

その29 夢のほとり

 あの日本家屋から出て、また俺は平原を歩き始めた。

 あれから、もう家屋の姿は見られなかった。あの家は、さっきの女性がいっていたように、この世界の中間地点にある休憩所だったのかもしれない。

 しばらく歩いていると、河が見えてきた。

 広大な河で、荒川や江戸川のような川ではなく、もっと大きな河だった。以前、教科書で見た黄河をどこか思わせた。

 河の向こうには、白い霧が立ち込めていて、彼岸を目にすることはできなかった。その河は夜空を反映させて、真っ暗な闇を湛えていた。

 その河面に、人影がポツンとあった。

 その人影は、その河のほうへと向かって、その場にしゃがみ込んでいた。途方に暮れているといったように。

 「凛花――」俺は、その人影に近づきつつ声をかけた。

 その人影が、こちらを振り返った。

 やはり、彼女だった。

 凛花は、驚いた目をして、「あーちゃん」と小さくこぼした。蚊の鳴くような声で。

 凛花は、長袖の白いワンピースを着ていた。その服は以前、彼女が一番気に入っているといっていたものだった。この世界では、自分の好きな見た目や服装でいられるのかもしれない。ここはきっと、イメージの世界なのだ。

 「どうして……」彼女は驚いた瞳をしたまま、そう続けた。

 「迎えに来たんだ」と俺はいった。「一緒に帰ろう」

 「もうわたしは死んだはずだけど……」そう彼女は答えた。「だってここはあの世でしょう? ここはたぶん、三途の川――」

 「まだ、間に合うんだ」と俺はいった。

 「そう……」彼女はうつむき加減で答えた。

 そのまま河面のほうへと、また向き直ってしまう。

 「お前――」そう俺は不安になりながらもいった。「戻りたくないのか?」

 「わたしにはわかるの」と彼女は、彼岸のあるほうへと顔を向けたままいった。「あっちの世界は『楽園』なんだって……。あちらでは、苦しいことも哀しいことも何もなくて、欲しいものならなんでも手に入る場所なんだって……」

 なのに、どうして、元いた場所に戻るの?と凛花はいった。「向こうの世界に比べたら、元いた世界は地獄だよ……」

 「だけど――」と俺はいった。「あっちの世界では、俺はいない……」

 凛花が、こちらを振り返った。

 無感動な目だった。その瞳で、俺のこと静かに見据えていた。

 「お前があっちの世界に行ったら、もう俺たちは逢えない……」少なくとも当分のあいだは――

 「元いた世界に戻ったって……」と凛花はやはり俯き加減でいった。「あなたとは、もう一緒にいられないでしょう?」

 「見てたのか」と俺はいった。

 「見てたよ」と凛花は無感情に続けた。「空の上から全部見てた。それでやっとわかったの。ああ、あなたの心はわたしから離れていったんだってね……」

 あの人のことが好きなんでしょう?と彼女は、また彼岸のほうへと顔を向けていった。

 俺は何も答えなかった。どういえばいいのかわからなかったのだ。何を口にしても嘘になってしまうような気がした。

 「なら、これでいいじゃん」凛花はその沈黙を肯定と受け取ったようだった。「これでサヨナラでいいじゃん……」

 霧の向こうから、何か影が見えてきた。

 それは舟だった。

 その舟の上には、人影があった。

 「よくない」と俺はいった。

 彼女はまたこちらを振り返った。

 どこか悲痛さが垣間見えるような目をしていた。

 「お前の隣に、俺はいるべきなんだ」と俺はいった。「そして俺の隣に、お前はいるべきだ。俺たちは否応なく、そういう関係性なんだよ。もう好きとか嫌いとかいうレベルの話じゃなく……」

 「よくわからない」と凛花は答えた。

 「お前がいて、初めて俺は俺になるんだ」といった。「たぶんお前は、俺がいて初めてお前になる――」

 彼女は黙っていた。

 「恋だとか性だとか寂しさだとかじゃない」と俺は続けた。「俺には、お前のことが必要なんだ――」

 沈黙。

 「俺たちが離れ離れになることは間違ったことなんだよ。俺はお前で、お前は俺なんだ。自分自身とはぐれるわけにはいかない」

 沈黙。

 その小舟は、徐々にこちらの岸へと近づいてきた。

 「俺たちはペアなんだ」と続けた。「つがいなんだ。生まれてから死ぬまで。あるいはその前も、そのあとも……。俺たちはずっと二人三脚でこれまで生きてきたんだ」

 その関係が、そう簡単に壊れていいわけがない、と俺はいった。

 凛花は、河面に向かって、ハァ……と小さくため息をついた。

 そして、その場から立ち上がった。

 「凛花――」と俺。

 「一つだけ約束して」と彼女がいった。

 「えっ?」

 「一つだけ」

 「なんだよ……」

 「もう二度と、わたしのことを裏切らないで」

 「そもそも、裏切ったことなんて――」

 「いいから」と彼女は強い口調で遮った。「二度とわたしのことを裏切らないで……」

 わかった、と俺は応じた。「だけど具体的には――」

 「そんなこと、いうまでもないでしょ」と彼女は、河の向こうに目を向けたまま答えた。

 「ああ」と俺はいった。「そうだな……」

 「わかったの?」と彼女。「本当に……」

 「わかったよ」と俺。

 「なら……」と凛花はこちらを振り返った。そこには笑みがなかったが、無感情というわけではなかった。「赦してあげる――」




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ