その29 夢のほとり
あの日本家屋から出て、また俺は平原を歩き始めた。
あれから、もう家屋の姿は見られなかった。あの家は、さっきの女性がいっていたように、この世界の中間地点にある休憩所だったのかもしれない。
しばらく歩いていると、河が見えてきた。
広大な河で、荒川や江戸川のような川ではなく、もっと大きな河だった。以前、教科書で見た黄河をどこか思わせた。
河の向こうには、白い霧が立ち込めていて、彼岸を目にすることはできなかった。その河は夜空を反映させて、真っ暗な闇を湛えていた。
その河面に、人影がポツンとあった。
その人影は、その河のほうへと向かって、その場にしゃがみ込んでいた。途方に暮れているといったように。
「凛花――」俺は、その人影に近づきつつ声をかけた。
その人影が、こちらを振り返った。
やはり、彼女だった。
凛花は、驚いた目をして、「あーちゃん」と小さくこぼした。蚊の鳴くような声で。
凛花は、長袖の白いワンピースを着ていた。その服は以前、彼女が一番気に入っているといっていたものだった。この世界では、自分の好きな見た目や服装でいられるのかもしれない。ここはきっと、イメージの世界なのだ。
「どうして……」彼女は驚いた瞳をしたまま、そう続けた。
「迎えに来たんだ」と俺はいった。「一緒に帰ろう」
「もうわたしは死んだはずだけど……」そう彼女は答えた。「だってここはあの世でしょう? ここはたぶん、三途の川――」
「まだ、間に合うんだ」と俺はいった。
「そう……」彼女はうつむき加減で答えた。
そのまま河面のほうへと、また向き直ってしまう。
「お前――」そう俺は不安になりながらもいった。「戻りたくないのか?」
「わたしにはわかるの」と彼女は、彼岸のあるほうへと顔を向けたままいった。「あっちの世界は『楽園』なんだって……。あちらでは、苦しいことも哀しいことも何もなくて、欲しいものならなんでも手に入る場所なんだって……」
なのに、どうして、元いた場所に戻るの?と凛花はいった。「向こうの世界に比べたら、元いた世界は地獄だよ……」
「だけど――」と俺はいった。「あっちの世界では、俺はいない……」
凛花が、こちらを振り返った。
無感動な目だった。その瞳で、俺のこと静かに見据えていた。
「お前があっちの世界に行ったら、もう俺たちは逢えない……」少なくとも当分のあいだは――
「元いた世界に戻ったって……」と凛花はやはり俯き加減でいった。「あなたとは、もう一緒にいられないでしょう?」
「見てたのか」と俺はいった。
「見てたよ」と凛花は無感情に続けた。「空の上から全部見てた。それでやっとわかったの。ああ、あなたの心はわたしから離れていったんだってね……」
あの人のことが好きなんでしょう?と彼女は、また彼岸のほうへと顔を向けていった。
俺は何も答えなかった。どういえばいいのかわからなかったのだ。何を口にしても嘘になってしまうような気がした。
「なら、これでいいじゃん」凛花はその沈黙を肯定と受け取ったようだった。「これでサヨナラでいいじゃん……」
霧の向こうから、何か影が見えてきた。
それは舟だった。
その舟の上には、人影があった。
「よくない」と俺はいった。
彼女はまたこちらを振り返った。
どこか悲痛さが垣間見えるような目をしていた。
「お前の隣に、俺はいるべきなんだ」と俺はいった。「そして俺の隣に、お前はいるべきだ。俺たちは否応なく、そういう関係性なんだよ。もう好きとか嫌いとかいうレベルの話じゃなく……」
「よくわからない」と凛花は答えた。
「お前がいて、初めて俺は俺になるんだ」といった。「たぶんお前は、俺がいて初めてお前になる――」
彼女は黙っていた。
「恋だとか性だとか寂しさだとかじゃない」と俺は続けた。「俺には、お前のことが必要なんだ――」
沈黙。
「俺たちが離れ離れになることは間違ったことなんだよ。俺はお前で、お前は俺なんだ。自分自身とはぐれるわけにはいかない」
沈黙。
その小舟は、徐々にこちらの岸へと近づいてきた。
「俺たちはペアなんだ」と続けた。「つがいなんだ。生まれてから死ぬまで。あるいはその前も、そのあとも……。俺たちはずっと二人三脚でこれまで生きてきたんだ」
その関係が、そう簡単に壊れていいわけがない、と俺はいった。
凛花は、河面に向かって、ハァ……と小さくため息をついた。
そして、その場から立ち上がった。
「凛花――」と俺。
「一つだけ約束して」と彼女がいった。
「えっ?」
「一つだけ」
「なんだよ……」
「もう二度と、わたしのことを裏切らないで」
「そもそも、裏切ったことなんて――」
「いいから」と彼女は強い口調で遮った。「二度とわたしのことを裏切らないで……」
わかった、と俺は応じた。「だけど具体的には――」
「そんなこと、いうまでもないでしょ」と彼女は、河の向こうに目を向けたまま答えた。
「ああ」と俺はいった。「そうだな……」
「わかったの?」と彼女。「本当に……」
「わかったよ」と俺。
「なら……」と凛花はこちらを振り返った。そこには笑みがなかったが、無感情というわけではなかった。「赦してあげる――」