その28 味気ない食事
彼女が、台所で食事を作ってくれていた。
「食品なんて用意されているんですね……」俺は、台所に立つ彼女の背中に向かっていった。
「面白いのよ」と彼女は包丁で野菜を刻みながら答えた。その横では、鍋がグツグツと音を立てている。「食材を使うと、翌日には他のものが補充されているのよ。まるでわたしが眠っているあいだに、誰かがこっそりと家に入ってきて、それを追加してくれたみたいにね」
「いったい、どうなっているんでしょうね」と俺は訊ねた。
「さあ? わからないわ」と彼女は応じた。トントントン……と、リズミカルな音が、部屋のなかに響いていた。「そういう仕組みなんでしょう。もう考えるの、くたびれちゃった」
しばらくして、食事ができあがった。
白いご飯にみそ汁、それから焼き鮭。お新香も添えられている。
彼女と俺は、黙ってそれらを口に運んでいた。
「あまり美味しくないでしょう?」と彼女が不意にいった。
「そんなことは……」
「正直にいってもらって構わないのに」と彼女が微笑した。「わたしの料理の腕、云々ではなく、この世界の食べものって何か味気がないのよ。わかるでしょう? まるで空気の霞を食べているみたいで……」
俺は黙っていた。だけど、その意見には同感だった。
「ここの世界に来てから、お腹が空かないのよね」と彼女は続けた。「それに眠くもならないの。食べなくても、眠らなくても大丈夫なの。だけど、習慣として一応、それらをとっているのね。何か生活のリズムをとるためというか……」
俺は黙って、その先を促した。
「なんだか、昔読んだ小説を思い出すわ」そう彼女はいった。「村上春樹の『世界の終りと、ハードボイルド・ワンダーランド』という小説なんだけど――」
あなた、読んだことある?と彼女が訊ねてきた。
いえ……と俺は小さく首を振った。
「あの小説には、何か不思議な世界が出てくるのね」と彼女は続けた。「壁のなかにある街なのだけど、あの世界と、この世界ってどこか似ているの……」
俺はその話に耳を傾けながら、お新香を食べていた。キュウリの小気味いい音が小さく響いていた。
「あの場所は、もしかしたら、この世界なのかもしれないわ」と彼女はいった。「あるいは、この世界の一つ上にある世界なのかもしれない。春樹はその世界を知っていたのかもしれないわね……。それとも、彼の記憶のなかに、その光景が残っていたのかもしれない」
食事をとったあと、二人でまた座卓を挟んで熱い緑茶を飲んだ。
「あなた、これからどうするの?」と彼女が湯呑みから顔を上げて訊ねた。「なんなら、泊まっていっても構わないのよ。別にわたしの家というわけではないのだから……。遠慮はいらないわ」
いえ、と俺は答えた。「友人を捜しにいかないといけないので……」
そういえば、こうしているわけにはいかなかった。今にも凛花は、三途の川を渡ってしまうかもしれないのだった。
この世界に来てから、時間の感覚が失われてきて、ついのんびりとしてしまった。
そう、と彼女は微笑んだ。「なら、引き留めるわけにはいかないわね」
「あなたはどうするのですか?」と俺は訊ねた。
「わたし?」と彼女は訊き返した。「そうね……。そろそろわたしも決断しないとね。戻るのか、あるいは進むのか。多分――多分だけれど、この世界にはタイム・リミットが用意されているのでしょうから……」
「俺たちが元いた世界でいう四十九日間しか、ここの世界にはいられないらしいです」
「それを過ぎるとどうなるのかしら?」と彼女が少し驚いて訊ねた。
「さぁ……」と俺は答えた。それ以上のことは天使から聞いていなかった。
「おそらく――」そう俺はいった。「おそらく強制的に、あちらの世界へと行くことになるのだと思います」
「そう……」と彼女は小さく微笑んだ。「なら、わたしも急がないとね」