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その25 幽現界

 台所で、水と一緒に、天使から貰った錠剤を飲み下したあとで、俺はベッドに仰向けになった。


 しばらくして、微かにウトウトとし始めた。天使が話していたように、この薬には入眠剤の作用もあるようだった。


 寝入り端のタイミングを捉えて、俺は幽体離脱を試みた。


 「コツがある」と天使は病院の屋上で云っていた。「君の意識を身体のなかでねじらすようにする。そのまま、頭のてっぺんから外へと抜け出るようにするんや」


 そう教えられたとおりに、俺はそのイメージで身体から抜け出そうとした。


 すると、本当に抜け出せてしまった。頭のほうからスルッと――


 俺は、自室の天井のあたりに浮かんでいた。


 そして、ベッドの上に仰向けに横たわる自分の姿を見下ろしていた。


 「それで、どうすればいいんだ?」と俺は思った。


 そういえばこの先にするべきことを、天使から何も教えられていなかった。


 このままどこかへと移動すればいいのだろうか……


 しかし一体どこへ? この地上には、もう凛花の抜け殻しか存在しないのだ――


 しばらくすると、視界が真っ黒な闇へと覆われていった。


 それから、目の前が何も見えなくなった。


 焦っていると、俺の片腕を誰かが掴んだような感触があった。


 誰だ?と思った。敵なのか、味方なのか――


 俺は、その何者かの腕によって、上のほうへと引っぱり上げられていった。


 俺の身体――ベッドに横たわった俺のそれではなく――が、何か境界を越えた感覚があった。


 そのとき、耳元で「ブーン」という、奇妙な低い音が聞こえた。どちらかと云えば、不快な音だった。蜂の羽音のように聞こえなくもなかった……


 それは、警告音だったのかもしれない。


 *


 気がつくと俺は、どこかの平原に一人で立っていた。


 「ここは……」俺は呟いて、辺りを見渡した。


 四方八方、何もなかった。


 ただただ、広い平原が広がっているだけだった。見渡すかぎりの大草原だった。


 その世界は、夜だった。とても高いところに、蒼白く光る月が浮かんでいた。


 不意に風が吹き、平原の短い草を、ザワザワと波打たせた。まるで海原のように。


 その世界には、咲き誇る花々の姿も、飛び交う蝶々の姿も見当たらなかった。


 俺が今まで抱いていた、あの世のイメージとは少しだけ違っていた。


 「で……どうすりゃいいんだ」と俺は大平原を前にして、途方に暮れながら云った。「どっちへ行けばいい?」


 「あの星に向かっていけばええ」と俺の左手の視界に何かが伸びてきて、ギョッとした。


 それは、腕だった。その腕からは、暗緑色の着物の袖が垂れていた。


 背後を見ると、いつの間にか男が立っていた。髪の薄い頭に、ジョン・レノンみたいな銀縁の丸眼鏡――


 「俺を引き上げたのアンタだったのか」と俺は胸を撫で下ろしながら訊ねた。


 「そんなことはどうでもええねん」と天使はいつもの調子で答えた。「とにかく、あの星へ向かっていけ」


 天使の指し示す先には、蒼白く光る一つの星があった。周りの星々と比べて、その光はひときわ明るかった。


 「あの星は、君らの世界で云うところの北極星や」と天使は続けた。「あれを道しるべに進んでいけや」


 「その先に、凛花がいる?」と俺は訊ねた。


 「そうゆうことや」と天使。


 「ここはどこなんだ?」と俺。


 「幽現界」と天使は答えた。


 「ユウゲンカイ?」


 「現界と幽界、つまりこの世とあの世の狭間に横たわる世界や」と天使は云った。「言い換えれば、その双方の中継地点やな」


 この世界に、君のガール・フレンドはおる、と彼は続けた。「君らの世界の時間でいう四十九日間は、この世界に留まれることになっとる」


 「四十九日?」と俺は云った。凛花が刺されて、病院に送られたのは、それよりも前だったからだ。


 「つまり、つい最近まで、彼女の魂は、彼女の身体に宿っていたんや」と天使は答えた。「せやけど、何らかの理由で、君のガール・フレンドは、自らの肉体を捨てて、こちらの世界へとやってきたんやな」


 それは、生きることを諦めたことを意味する、と彼は付け加えた。


 「どうして……」と俺。


 そのとき、時枝の姿が、俺の脳裏を過っていた。それから、あの竜巻の起こった日のことが――


 たぶん、凛花は全部見ていたのだ。俺たちのことを空の上から……


 「この先に――つまりさっき云うた星へ向かって歩いてゆけば、『生と死の境界』と呼ばれる場所へと辿り着く」


 「生と死の境界?」


 「いわゆる三途の川やな」


 「本当に三途の川ってあるんだな」と俺は云った。


 「まぁ、人によって――あるいは民族によってそれは姿を変える」と天使は云った。「その民族が共通して持つイメージ、つまりユングの云うところの集合的無意識によってな……。たとえば、日本なら三途の川が、西洋なら扉が現れる。なかには、崖を登るイメージが現れる人間もおる」


 「俺はどうすればいいんだ?」と云った。「つまり、その場所まで行って……」


 「病院で話した通りや」と天使は答えた。「君のガール・フレンドを、君のいる世界へと連れ戻すんや」


 それはわかってる、と俺は答えた。「でも、どうやってあいつを……」


 「そんなもん、俺に訊くなや」と天使は笑った。「それは、君ら自身の問題や。あの手この手を使って、彼女をなんとか説得するほかないわな……」




 「そろそろ行ったほうがええで」と天使は云った。


 「アンタはついてきてくれないのか?」俺は急に心細くなって訊ねた。


 「君と違って、俺は忙しいねん」と天使は頭を掻いた。「やることが山積しとんねや……。俺は、君と時枝以外の人間のミッションも監督しておるんやからな」


 「ぐずぐずしとると、君のガール・フレンドが、あちら岸へと渡ってまうで」と天使は、俺を逸り立たせるように云った。「たぶん彼女は、渡し船がやってくるのを河岸で待っておるんやろうからな……」


 俺は、その例の星のある方角へと向かって、その平原を一人歩き始めた。


 しばらくして振り返ると、彼は姿を消していた。


 その平原はやはり、ときどき吹く風によって、短い草を波立たせていた。月明かりの下でのその光景は、圧倒的だった。

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