その22 生還
彼女の家は、ひどく古びていた。
二階建ての、コンクリート製のアパートメントで、築40年は越えている筈だ。
かつては白かったはずの外壁は、くすんだ灰色に染まっていて、ところどころが黒く煤けていた。ひび割れも目立った。
むかしTVで目にした、旧共産圏の団地をどことなく彷彿とさせた。
時枝から渡された名刺に書かれた、部屋番号のある部屋へと俺は向かった。その部屋は、202号室だった。
その扉には、「時枝霊能事務所」と鉄のプレートが打ち付けられていた。
「時枝っ!!」俺は声を張り上げて扉を強く叩き、間髪入れずにドア・チャイムを連打した。
少しの間のあとで、カチャリと乾いた音が、強い風の唸り声に混じって響いた。
扉が開くと、彼女が立っていた。
額に冷却シートを貼り、グレーと白の縦縞のパジャマを着ていた。
スボンを履いていなかったが、パジャマがだぶついていて、ほとんどワンピースというか、てるてる坊主のような姿になっていた。
「どうして……」ぼんやりとした時枝の表情のなかに、わずかな驚きの色が浮かんでいた。小石を投げ込まれた、静かな水面の波紋のようだった。
今の今まで寝込んでいたのだろう、髪にはドナルド・ダックの尻尾のような寝癖が跳ねていた。
「逃げるぞ」と俺は言った。
「えっ?」
「話はあとだ」と俺は続けた。「あまり時間がないんだ」
*
彼女はかなり衰弱していた。
貴重品を取りに、彼女は自室に引き返したのだが、足元は覚束なく、ふらついていた。
時枝を負ぶり、俺は階段を慎重に下りていき、そしてそのアパートから脱出した。
すぐそこまで竜巻が迫っていて、その勢いはより増しているようにも見えた。
その黒々とした巨大竜巻は、木々や家屋をなぎ倒しながら突き進んでいた。よくニュースで目にする、アメリカの大地を襲うそれのようにも思えた。
時枝の住んでいた、旧共産圏的なアパートも、その巨大竜巻に呑み込まれていった。
そのアパートから300メートルほど離れた場所から、俺と時枝はその様子を目にしていた。
やがて竜巻がそこから過ぎ去ると、そのアパートは跡形もなく姿を消していた。
俺たちは、河川敷のほうまで歩いて逃げてきた。
そこは以前、俺と時枝がケンカ別れをした場所だった。
すでに黒い積乱雲は姿を消して、嵐も止み、雲一つない青空が広がっていた。
驚くほど軽い彼女を、俺は河岸近くのベンチの上に静かに下ろした。
「どうして――」俺を見上げながら、時枝がふたたび訊ねた。あひるの尾みたいな寝癖はまだそのままついていた。
「どうして?」と俺は問い返した。
「あなた、わたしのことが嫌いだったんじゃないの?」と時枝は続けた。
それから、あなたの好きな人は、あの凛花という娘こでしょう?とも――
「心っていうのは――」と俺は答えた。「もっとアンビバレントなものなんだよ。あるいはまだら模様になっているというか……。首尾一貫としたものじゃないんだ」
どこかむず痒くなる思いがしたが、俺はそれを伝えずにはいられなかった。まるで、誰かが俺の口を使って、そのセリフを云わせているかのようにも思えた。
それからそのために、このシチュエーションが用意されたようにも。そのために俺と彼女が出逢ったようにも――
俺のことを、時枝はジッと見つめていた。どこか承服しかねるといった趣きが、彼女の表情からは見て取ることができた。
「多分、お前だってわかってる筈なんだ」と俺は云った。
彼女は黙っていた。
たぶん彼女は、そのことを認めたくないだけなのだ。
認めたくない自分の側面を、彼女は自分自身から切り離しているのだろう。
彼女がどこか虚無的に見えるのは、それが理由なのかもしれない。
自分の感情や記憶の一部を切り離すということは、自分の感情や記憶の全てを切り離すことと同じことなのだろう。
そしてその心は、立体的なものから平面的なものへと変わり、その記憶は、線的なものから点的なものへと変化してしまうのだろう。
生きながらにして、その人は死んでしまうことになるのだろう。彼彼女は一つの「視点」になり果ててしまうだろう。




