その16 悪夢
その二日後の朝。俺は凛花の自宅近くの、電信柱の陰に身を潜めていた。
彼女が出てくるのをジッと待ち構えていたのだ。
そのとき時枝は、俺の傍にはいなかった。俺一人でこのミッションを終えようとしていたのだ。
というのは、あいつの存在が結果的に、俺と凛花の仲を拗らせたからだ。これ以上話をややこしくするわけにはいかなかった。
少しして、彼女が自宅の玄関先から姿を見せた。
半袖の薄いベージュのワンピースという格好だった。黄色のポーチを肩から下げていた。
俺は、凛花の許へと歩み寄っていった。
「あーちゃん」と俺に気づいた凛花が、目を丸くして、口許に、その細い指を当てた。
「どこに行くんだ?」俺は挨拶も抜きに、単刀直入にそう尋ねた。
「あーちゃんには関係ないでしょ……」途端に彼女は、不機嫌そうな顔つきとなり、彼女のいつもは高い声が、一段低くもなった。
「なぁ、何がお前を、そんなに怒らせたんだよ?」
「うるさいな」彼女はプイッとそっぽを向いて、駅のほうへと歩き出した。
「時枝だろ?」俺は凛花のあとを追いかけながら尋ねた。「あの女が、理由なんだろ?」
彼女は何も答えなかった。
「それは誤解なんだよ」そう俺は続けた。「あいつとはただの……」
あれっ?と思った。なんて説明すればいいんだ?
仕事の仲間? そう説明すれば、あの天使のことや、このミッションのことも、芋づる式に話さなくてはいけなくなる……。なんであれだけ時間があったのに、そのことについて、まったく考えが及ばなかったんだろうか――
「もういいよ」と彼女は不意に立ち止まった。無理に抑えた怒りや悲しみが、外に滲み出たような声色だった。
気がつくと、俺たちはすでに駅前のバス・ロータリーにまで来ていた。
ファスト・フードやカフェ、銀行などの看板が目に入ってくる。灰色の高架線の前を、多くの人たちが往き交っている。
「何が?」と俺は凛花の背中に向かって尋ねた。
以前よりも、彼女の肩が小さく細くなっているようにも見えた。本当に少し、痩せたのかもしれない……
「もう何度も見てるの」凛花は前を向いたままで答えた。「あの黒いドレスの人と一緒に歩いているところを――」
「な、なんで……」
「後を尾けてたから」と彼女は平然と答えた。後ろめたい素振りも見せずに。「あーちゃんの家の前に張り込んでね。それで二人が、お店や病院に入っていくところとか見てたの。痴話喧嘩なんかしてさ。すっごく仲良さそうだったね……」
「誤解だっ!」と俺は声を張り上げた。駅前を歩く通行人のうちの何人かが、怪訝そうにこちらを振り向いた。そのなかには、舌打ちをするやつまでいた。
「何が誤解なのさ?」彼女はこちらを振り返った。その悲痛な面持ちには、どこか軽蔑の念すら浮かんでいた。
「それは……」と俺はやはり言い淀む。
「さよなら」彼女は前を向き、俺の傍から離れていった。
「取り付く島もない」とはこのことか……と思った。
俺は力を落として、その場に立ち尽くしていた。彼女のことを追いかけることすらもせずに……
そのとき悲鳴が聞こえた。
女性の声だった。
俺たちは同時に、そちらのほうを向いた。
ロータリー広場に、人がうつ伏せに倒れていた。
紺のスーツを着た男性だった。
その男性の傍に、黒い服を着た男が立っていた。
その男の右手には、氷のように光る何かがあった。
それは、刃物だった。
ロータリー広場にいた人々が、蜘蛛の子を散らしたように、ワッと一斉に逃げ出した。
「凛花っ!!」離れたところにいる彼女の許に、俺は手を伸ばして駆け寄ろうとした。
彼女はこちらを振り返った。今にも泣き出しそうな顔つきだった――
そのとき、俺の視界がガクンッと大きく揺らいだ。それから、掌と胴とに衝撃が走った。
気がつくと、俺は地面に倒れ伏せていた。掌が擦り剝けて、ジンジンと強く痛んだ。
俺の目の前を、人々が駆け抜けていった。そのうちの誰かが俺とぶつかったのだ。
顔を上げると、凛花の姿が目に入ってきた。馬鹿野郎、まだ逃げてなかったのか――
凛花はそこにしゃがみ込んでいた。俺と同じように誰かとぶつかったのか、あるいは恐怖で足がすくんで、立っていられなくなったのか――
まるで、悪夢を見ているかのようだった。
俺の両目に映ったのは、あの刃物を持った男が、凛花目がけて走っていくところだったのだ。
その光景は、まるでスロー・モーションのようにも見えた。
そのとき、耳をつんざくような叫び声が聞こえた。きっと、凛花の声だったのだろう。
そのあとのことは、よく思い出すことができない。思い出したくもない――
駅の広場の上に広がった、血溜まり。救急車やパトカーの赤いランプ。けたたましいサイレンの音。
駅前に倒れた人々を、救急隊員たちが、タンカに乗せて運んでいく。
スマートフォンを向けた黒山の姿や、カメラを構えた報道カメラマンたち。上空からは、たぶんテレビ局のヘリコプターの音が、バラバラと聞こえてくる……




