その14 あの世の話
「なに? あなたたち……」その女はそう言った。
その女は、例の九階建てビルの屋上にいた。
フェンスの向こう側に立っていた。フェンスを挟んだ彼女の足許には、彼女のハイヒールが、両方揃えて置いてあった。
「あー……、俺たちはその……」俺は口ごもりながらも応じた。
女は怪訝そうな表情でこちらを睨みつけている。
その女の年齢は20代後半くらいに見えた。実際はもっと若いのかもしれない。そのスーツとボサボサの髪型のせいで、彼女は老けて見えた。細身で、目鼻立ちがよく、ちゃんと化粧さえしていれば、明らかに美人の類いに入るはずだ。
会社員なんかしていないで、モデルにでも転職すればいいのにと思った。きっと彼女は、自分自身のことがよくわかっていないのかもしれない。いるべき場所を、彼女は間違えているのだろう。誰かがそのことを、そっと耳打ちしてあげるべきなのだ。なるべく彼女が傷つかないように配慮しつつ。あるいはあえて、悪役を引き受けて……。もちろん、彼女の背景をよく認識した上でだ。それから――
「わたしたちは、あなたの自殺を食い止めに来ました」
時枝が俺の横合いから、そう言い放った。敬語なのは、相手が年上だからなのだろう。
「ハッ」と、その女は嘲るように笑った。底意地の悪い顔になっている。「何言ってるの、アンタ……」
「わたしたちは神界――つまり、あの世からの使者なのです」と時枝は続けた。「正確に言えば、その代行なのですが――。あちらでトラブルが起きていて、死者の受け入れが困難な状況になっているのです。ですので、わたしたちは、死者の数を減らすべく、こうして活動しているのです。今、あなたの自殺を食い止めようとしているのも、その一環です」
「意味わからないんだけど」と女は怒ったように言った。「いや、理屈はわかるけど……。それをわたしが信じられる根拠は?」
「ありません」と時枝はきっぱりと答えた。
そう、根拠と言われると、俺たちはとても弱いのだ。あの天使が、俺にした手の込んだことを、今ここで披露するわけにもいかない……
「バカじゃないの?」その女は、吐き捨てるかのように言った。
「それじゃあね……」彼女は俺たちのいる場所から、前方へと向き直った。つまり、青空と住宅街の境目のほうへと――
万事休すか、と俺は思った。今日もまた飯が食えなくなるのだろう。あのときと同じように……
「地獄に堕ちるわよ」そう時枝が言い放った。
「地獄?」女はピタリと動きを止め、またこちらを振り返った。「何それ? 脅しのつもり?」
「自殺すると地獄に堕ちる」と時枝は、女の質問には答えずにそう繰り返した。「あちらの世界――つまり四次元世界は、上から、神界、霊界、幽界、それから幽現界とに分けられる。さらにその下に暗黒界――つまり地獄がある」
「時間稼ぎでもしようっていうの?」女は怒ったように尋ねた。
「そこは真っ暗闇で、とても寂しいところなの。独りっきりでね」と時枝は言った。「そこでは、永遠だと思えるような時間、生前の行いを反省することになるの」
「反省?」と女は言った。
「つまり今生における、自分の「使命」を果たせなかったことについて――」と時枝は続けた。「あるいは、自分の成すべきことを果たせなかったことに対して……」
その女は、奇妙なものを目にするように、時枝のことを見やっていた。そこには、呆れや軽蔑の念が籠もっているようにも見えた。
「そしてその人は、自殺してしまったことが恥ずかしくて、仲間に顔向けすることができないの。だからいつまでも、その闇のなかで、うずくまってジッとしている――。より上の階層を目指そうともせずにね」
「仲間?」と女は興味を惹かれたように言った。「なに、仲間って?」
「あちらの世界にいる仲間よ。こちらの世界にもいるけれどね。「グループ・ソウル」と呼ばれる魂たちのことを指すわ」
「ご高説、披露してもらっといてなんだけど――」女はまた意地悪そうな顔でニヤッと笑った。「わたし、あの世を信じていないんだ。あいにく、無宗教でね。人間死んだら無になるって、信じているの」
「生前、あの世の存在を信じていなかった人は、通常、あちらからのお迎えが来ないわ」そう時枝は言った。「死んでも自分の意識は消えないから、そういう人はもう一度、自殺しようと試みる。自分と波動の近い人を見つけ出して、その人の身体を乗っ取ってね。それでもまだ死ねないから、何度も何度もそのことを繰り返す――。「自殺の名所」と呼ばれるところは、そのようなメカニズムが成り立ってしまっているの」
女の胡散臭そうな顔のなかに、一片の「怯み」のようなものが浮かんだ。彼女の「無宗教」という宗教が、一瞬揺らいだのだろうか?
「だから、わたしがそれを信じる根拠がないって――」
「それなら、仕方ないわね」と時枝は小さく吐息をついた。「根拠なんてここでは示せないもの。「そういうものだ」としか言いようがないから――」
時枝は踵を返した。「帰りましょう」
「おいっ!」俺は彼女の背中に向かって言った。
「無駄よ」彼女はこちらを振り向かずに答えた。「こういう問題は、相手が「信じる」ことでしか解決できないもの。そしてあの人は、心を硬く閉ざしている――」
女は、時枝の黒い背中をジッと見つめていた。「一つだけいい?」
「どうぞ」時枝は階段室の前で歩みを止め、その女のほうを振り返らずに答えた。
「生まれ変わりってあるの?」その女は時枝の背中を睨みながら尋ねた。
「あるわ」と時枝は答えた。
「今の人生をリセットして、新しい人生をやり直したほうが、メリットがあったりはしないの?」
「そんなものないわ」と時枝。「生まれ変わっても、また前の人生と同じことを繰り返すからよ。似たような人間の身体に宿って、似たような環境に身を置いて、似たような体験をまた繰り返すの。自殺というのは、たとえるなら算数の課題から逃げ出した子供のようなものなのよ。逃げても、その課題はいつかはやらなくてはいけない。やらなければ、いつまでもその人のレベルは上がってはいかないから」
「算数なんてやらなくても、生きてはいけるけれども――」と彼女は続けた。「あなたがそれを選んだということは、あなたにとってそれは必要なことなのよ」
*
その女は、そのビルの表玄関から出てきた。
そして、元来た道を辿り始めた。さっきの駅まで戻るのだろう。自宅に引き返すのか、そのまま出勤するのかまではわからなかったが――。たぶん後者なのだろう。
「ハッタリが効いたな」俺は隣の時枝に笑いかけた。
俺たちは、そのビルから少し離れた電柱の陰で、その女の背中を見届けていた。
「ハッタリじゃないわよ」と時枝は答えた。
「えっ?」
「あれだけ言ってやめないのなら、本当に無駄だと諦めたのよ」
俺は若干、(物理的にも)引いた。「本当に飛び降りてたら、どうしてたんだよ……」
「そんなの知らないわよ」と時枝は言った。「だって、あの人はわたしじゃないもの」
俺は苦虫を噛み潰したような笑みを浮かべていた。それは作り笑いではなく、素の表情だった。
「とにかく、これで仕事は完了よ」と時枝は電信柱の陰から出てから言った。「そのあとのことは、あの人自身に任せるしかないわ。それはもう、わたしたちの問題ではないもの――」
それらの時枝の言葉には、どこか自分自身に言い聞かせているようなニュアンスが見え隠れもしていた。




