その13 鼠色のスーツの女
「その女」が、家から出てきたのは、朝の八時ごろだった。
その二階建ての家は、閑静な住宅街にあった。「高級」がつくような場所だった。
「いってきます」と女は言って、玄関のドアを閉めた。
そして駅へと向かって、歩き始めた。
「すごいわね」と時枝が不意に言った。
「えっ?」と俺は隣の彼女に目を向けた。
俺たちは、張り込みする刑事さながらに、その女の家を見張っていた。電柱の陰に隠れて。アンパンと牛乳までは飲み食いしていなかったが……
「あの人の背中がよ」と時枝が答えた。
「背中?」
俺は、小さくなっていく女の背中のほうへと目を向けた。
女は、くたびれた鼠色のスーツに、タイト・スカートという出で立ちをしていた。左手には、黒い鞄を提げていた。
遠目から見ても、彼女の髪はボサボサだとわかる。
「何も見えねぇけど?」俺は庇のように片手をかざし、目を細めて言った。
「真っ黒なのよ」
「えっ?」
「あの人の背中よ」と時枝は平淡に言った。「というか黒いモヤが、あの人全体を取り巻いているわ」
その二日前に、俺と時枝の許に、天使からの指令が入った。
鼠色のスーツを着たあの女が、今回のターゲットだということだった。
日時は、今日の午前。場所は、女の自宅の最寄り駅から、四駅ほど離れた町にある、九階建てのビルだった。
「時枝」と俺は、隣を歩く彼女に呼びかけた。
「自殺でしょうね」と時枝は、前を向いたままで答えた。「まず、間違いなく――」
俺と時枝は、その女を少し離れたところから尾行していた。
女は、朝の住宅街を一人歩いていった。その歩き方には、どこか「意志」のようなものが感じられた。静かだが、強い意志が――
その女は、最寄り駅の改札口を抜けて、下り電車のホームへと向かっていった。
俺たちも慌てて、改札を抜け、彼女の後を追った。
彼女はやってきた電車に乗り込んだ。俺たちも、その車両に乗り込んだ。
その電車はやはり、そのビルへと向かうそれだった。




