その12 光
時刻が深夜0時を回ったころ――
少年は、病院からの脱走を試みた。
少年の入院する病院の近くに、同じサッカー部の友人の家があった。今晩、そこに行こうと思いついたのだ。メッセンジャーで、すでにその友人には、連絡をつけてあった。
暗い廊下を抜けていくと、ナース・ステーションが見えてきた。そこだけが、煌々と明かりを放っていた。
人影が一つ、動くのが見えた。婦長の加藤さんだった。ふっくらとしていて、眼鏡をかけている。普段はやさしいが、怒ると怖い――
脱走が見つかれば、当然こっぴどく叱られるだろう。
そのとき、加藤さんが、席から立ち上がるのが見えた。おそらくトイレ休憩なのだろう。
少年はかがみ腰で、ナース・ステーションの前を、突っ切ろうとした。
そのとき、彼女の足音が、遠くから引き返してくるのがわかった。
「いけない、いけない」と加藤さんの声がきこえた。おそらく、財布かスマートフォンを置き忘れたのだろう。
「ん?」と加藤さんの声。
そのとき少年は、ナース・ステーションのカウンターの陰にいた。かがみ腰のままで――
こ、腰が痛ェ――!! この体勢を、このまま維持しているのは不可能だった。
しばらく間があった。
「気のせいかな……」加藤さんの吐息の音が聞こえた。
そして、彼女は踵を返し、彼女の足音はふたたび遠ざかっていった――
少年は顔を苦痛で歪めながら、中腰の姿勢のままで、そこに立っていた。
その足音が完全に遠ざかったのを確認してから、彼は階段へと向かって駆け出した。
*
「今晩は」と不意に声がきこえた。
そちらを振り返ると、誰かが立っていた。病院の表門のそばにだった。
やけに明るい月だった。その月明かりの逆光で、その人物はシルエットのようになっていた。
しかし、そのシルエットと声からして、女性であることは間違いなかった。
あの時の女だ、と少年は思った。あの変な高校生と一緒にいた、変な女だ。ゴスロリ服を着た――
「今晩は」とその女は繰り返した。さっきよりも少し大きな声で。たぶん、少年が聞こえなかったと思ったのだろう。
「またアンタかよ」少年は顔をしかめた。舌打ちが出そうになった。
「ここではナースコールは押せないわね」と女は言った。淡々とした口調で。
「誰も呼ぶ必要はねぇよ」と少年は答えた。
「こんな夜中に、いったいどこへ行くの?」と女は尋ねた。
「ちょっと、そこまで――」と言いかけたところで、少年はその女の正面に向かって駆け出した。
ゴスロリ服の女は、少し怯んだようで、目を丸くした。
そして少年は、向かって右へとフェイントをかけたあと、女の左側の空間をすり抜けた。
そのまま少年は、夜の通りを全力で駆けていった。
「サッカー冥利に尽きるぜ!」少年は心のなかで、そう叫んだ。「冥利」がどういう意味かまではわからなかったが……
少年の背後から、その女の声が聞こえてきたような気がした。どこかに電話をかけているようだった。
*
「よぅ」と男の声が聞こえた。
そちらを見ると、高校生くらいの男が、ポケットに両手を突っ込んで、自販機のそばに立っていた。
自販機の光による陰影も相まってか、どこか不気味な笑みを浮かべていた。
「また、あんたかよ」少年はげんなりして言った。さっきの女が、連絡を取っていたのはコイツか!
「どこ行くんだ?」男は笑みを浮かべたまま尋ねてきた。
「あんたには関係ないだろ!」少年はまた駆け出して、男の前を横切った。
チィッと男は舌打ちをして、少年のあとを追った。
「ついてくんなよ!!」少年の怒声が、深夜の町に響き渡った。
「お前、死んでもいいのかよ!!」男のどなり声が、背後から聞こえてきた。
「だから、信じてねぇっつってんだろ!!」そう少年もどなり返した。
前方に、交差点が見えてきた。赤信号だったが、少年はそこを突っ切ることにした。クルマが走っていなかったからだ。
「待て!!」背後から、男がまたどなった。その叫びには、どこか悲愴なものが混じっていた。
待てっつわれて、待つ馬鹿がどこにいんだよ! 少年はそこを駆け抜けようとした。
まず、音が聞こえた。耳をつんざくような音が――
そして、強い光が見えた。とても眩しい光だった。
それから、少年の脳裡に、過去の記憶が甦ってきた。まるで、奔流のように。走馬灯だった。
そのとき少年には、時間がどこまでも、引き延ばされるように感ぜられた。まるで、永遠だと思えるくらいに――
「俺は自分自身を生き切っただろうか?」少年は、そう自分自身に問うた。そして、「俺は『めあて』を果たしただろうか?」と。
俺は、自分自身の可能性を追求し、その結果手に入れたものを、世の中に還元しただろうか?
そして俺は以前、それらを果たしただろうか?
まだだ!! 少年はそう思った。
俺はまだ、死ぬわけにはいかない!!
そのとき、少年の背中に衝撃が走った。
少年は吹き飛ばされて、背中から地面へと叩きつけられた。
彼の意識が遠のいていった。
少年が、最後に耳にしたのは、誰かがこちらに近づいてくる足音だった――
*
俺と時枝は、例のサッカー少年の病室から出てきた。
少年は、どこか納得いかないように口を尖らせていたが、とりあえず俺たちに礼は述べていた。なんだか無骨な感じではあったが……
少年のベッド横の、窓の傍には、もう一つ千羽鶴が増えていた。もう一方のは、新しいものだろう。
「全治二週間ですって」と時枝が言った。
俺たちは、病院の前庭を並んで歩いていた。小鳥たちが、太陽の許に集まり、しきりに囀っていた。
「そんなもんで済んで良かったよな」と俺は言った。「おかげで俺まで、全身擦り傷だらけだけどな」
あの夜、あの少年は大型トラックに撥ねられかけた。
「驚いた」時枝はまったく驚いてなさそうに、そう口にした。「あなた、あの子目がけて、ドロップキックするんだもの」
「ほかに方法があったのかよ」と俺は尋ねた。「あいつも助かって、かつ俺も死ななかったやり方が?」
時枝は口許に指を置き、少し考えたあとで言った。「あの昔のドラマのように―――」
「そんなことしてたら、今ごろ二人とも木っ端微塵だよ」と俺は顔をしかめた。
「とにかく――」と俺は言った。
とにかく俺たちは、最初のミッションを、無事にクリアしたのだった。




