1 裏世界
始発の電車は、いつも通り眠気を運んでくる。
車内の冷たい吊り革を握りながら、鈴木綾人は半分眠ったまま、スマホの画面をぼんやり眺めていた。
朝の通学ラッシュには少し早い時間帯。電車は空いていて、綾人はいつものようにドアのそばに立つ。窓の外を流れる景色は、何一つ変わらない。灰色のビル、同じようなアパート、線路脇にある古びた標識。
「……次は、○○駅。○○駅です」
アナウンスの声を聞いて、綾人は反射的に身体を動かす。ドアが開く音、流れ込む外の空気。まばたきをひとつした、そのときだった。
――パッと視界が白くなる。
まるでフラッシュを浴びたような眩しさ。思わず目を閉じた綾人が、再びまぶたを開けたとき、そこにはいつも通りの駅があった。はず、だった。
だが、どこかがおかしい。
人がいない。通勤客の姿も、駅員の姿も、誰一人として見当たらない。
電子案内板は真っ暗で、構内放送も止まっている。空気だけが、やけに静かだ。
「……あれ?」
改札を目指して歩き出す。自動改札は開かれているが、外へ出ようとしても――出口が、ない。
階段を上っても、下りても、曲がっても、行き止まりだったはずの先にまた通路が現れる。
ホーム、構内通路、階段、コンビニの前、連絡通路。どこまで歩いても、駅の中だけが終わりなく続いている。
「なんだこれ…」
まるで、駅という構造をコピーして貼り付けたように、無限に繋がっている世界。足音だけが反響し、空気はどこか淀んでいる。ガラスの外には風景があるはずなのに、白く霞んで何も見えない。とりあえずこの空間を探索してみることにした。
―――――――
どれくらい歩いただろう。
感覚が狂い始めていた。時計もスマホも、電波を失ったまま何の反応も示さない。時間が止まってしまったかのように、駅は沈黙し続けていた。
そして、綾人はそれを見つけた。
駅の端にある、半ば閉鎖された古いホーム。蛍光灯の半分が切れかけていて、点滅する光が壁に不規則な影を落としている。
「……なに……これ」
床に横たわる、人の“形”をしたもの。
それが死体だと気づくまで、ほんの数秒かかった。
血まみれだった。上半身は何かに食い破られたように裂け、目は見開かれたまま。表情は恐怖と絶望で歪み、腕は何かから逃れようとしたのか、引きずったような跡が続いていた。
綾人は息を呑んだ。震えが止まらない。背筋が氷のように冷たくなる。
「おぇっ」
見慣れない光景により吐き気が襲ってきた。
足音を忍ばせるようにして、ゆっくりと死体に近づいた。
呼吸は浅く、心臓の鼓動がうるさいほど響いている。
もう一度、目の前の現実を確認する。
――間違いない。死んでいる。
それも自然死じゃない。何かに襲われて、苦しんで、血を流して……ここで命を落とした。
けれど、服装は奇妙だった。学生でも会社員でもない。
黒っぽいジャンパーに動きやすいパンツ、胸元には割れたインカムらしきデバイス。まるで、警備か、サバイバルゲームの装備みたいだ。
「……なんで、こんなやつがこんな駅に……」
足元に黒いものが落ちてるのに気がついた。
拳銃…おそらくこの見た目からしてグロックだろうか。
ずっしりと重い。ゲームで見るそれとは比べものにならない、本物の質感。
スライドを引いてみると、弾は入っている。だが残りはわからない。咄嗟のときに撃てなければ意味がない。
――マガジンは。
綾人は恐る恐る死体のポケットや装備を探る。
やがて、ジャケットの内側からスペアのマガジンがひとつ見つかった。まだ使える。弾は……フルに装填されているようだった。
「……持っておくしか、ないよな」
マガジンをポケットにしまい、グロックを両手で構えてみる。見よう見まねで、構えの姿勢を確認する。――自分がこんなことをしていること自体が、現実とは思えなかった。
改めて、周囲を見渡す。薄暗いホームの奥へと通路が続いている。
その先に何があるのかは、わからない。
けれど、このままじっとしていても何も始まらない。
綾人は、銃を手に、無限に続く駅の迷宮へと再び足を踏み入れた。