第6話 魅惑の紫
守り人の言葉は、重く、そして深くカイリの心に刻まれた。自分が持つかもしれない未知の力、ミスティリアに隠された秘密、そして忍び寄る『影』の存在……。答えの見えない問いを抱えながら、光を失った広大な空間を後にした。カイリは再度、迷宮の通路へと足を踏み入れた。先ほどまでの荘厳な雰囲気は消え去り、再びしんとした静けさと、どこか方向感覚を狂わせるような歪みが空間を満たしている。
どこへ向かうべきなのか、皆目見当もつかない。元の世界への出口を探すべきなのか、それとも、守り人が示唆した『さらに奥』へと進んでいくべきなのか。カイリは考えあぐねていた。ぼんやりとした意識の中で、先ほどから漂っていた甘い香りが、より強くなっている方へと足を進めていた。
いくつかのねじれた通路を抜けていく。流転する液状のなアーチが頭上に見える。金属が溶けたのか、銀白色の光沢を放ちながら、形状を変えうごめいている。注意しながらアーチくぐると、カイリは思わず息を呑み、足を止めた。
目の前に広がっていたのは、信じられないほど美しい光景だった。
まるで夢そのものを閉じ込めたかのような、幻想的な庭園。広さはそれほどでもないが、足元から壁面、そして天井に至るまで、目が覚めるような鮮やかな紫色の花々が、狂おしいほどに咲き乱れていた。現実世界のどんな花とも似ていない。花びらはベルベットのような深い光沢を帯び、その縁はまるで燐光を発するようにパステルに輝いている。空間全体に満ちているのは、先ほどからカイリを導いてきた、あの甘く、どこか懐かしいような、それでいて心を惑わせるような芳醇な香りだった。
「きれい……」
カイリは、我知らず呟いていた。その美しさは、理屈を超えて、直接魂に訴えかけてくるようだ。彼女はゆっくりと庭園の中に足を踏み入れる。柔らかな苔生した地面を踏むと、足跡の周りに紫色の光の粒子が舞い上がった。
一輪の花にそっと手を伸ばす。指先が、光沢のある花びらに触れると、微かなエネルギーのようなものが、指先から体の中へと流れ込んでくるのを感じた。それは温かく、心地よく、そして同時に、心の奥底にある何かを揺さぶるような、不思議な感覚だった。この花は、美しいだけではない。何か特別な力を帯びている。カイリは直感的にそう感じた。
庭園の中央に進んで行くと、ひときわ巨大な紫色の花が、まるで玉座のように堂々と咲き誇っていた。その花は、周囲の花々とは比較にならないほどの威厳と存在感を放ち、花びらの中心から、星屑を散りばめたような強い光が溢れ出している。カイリは、その圧倒的な美しさに完全に魅了され、ただ呆然と見入ってしまった。花の精霊か何かが宿っているかのような、言葉で言い表すことのできない、神秘的な光景だった。
時が経つのも忘れ、カイリがその巨大な花に見惚れていると、ザリッと背後で音がした。誰かがすぐ近くの地面を踏んだような音。
はっとして振り返るが、そこには誰もいない。花たちが静かに揺れているだけだ。
「……気のせい?」
だが、確かに聞こえた気がした。この夢迷宮には、守り人以外にも誰かいるのだろうか。それとも、これも迷宮が見せる幻覚の一つなのだろうか。一瞬、体がこわばり、背筋に冷たいものが走るのを感じた。だが、すぐに再び、目の前の花の美しさに意識を引き戻される。
美しい景色だ。きっと、何も気にしなければいくらでも眺めていられるのだろう。だが、長居は無用かもしれない。この場所は美しいが、同時にどこか危険な香りもする。カイリは、名残惜しい気持ちを振り払うように、もう一度庭園全体を見渡し、その光景を目に焼き付けた。
そして、ゆっくりと踵を返し、庭園の入り口へと向かった。庭園を後にしても、あの甘美な香りは、しばらくの間、彼女の鼻腔に残り続け、迷宮の奥へとさらに誘っているかのようだった。迷宮の入口へ戻るべきか、出口を探すべきか……それともこの香りの先へと進むべきか。カイリの心はまだ揺れていた。