スペクトラム
高くもなく、低くもなく、だがひときわ澄んだ響きの鐘の音が響いた。
このあたりに、寺などあっただろうか。
と、ぼんやりした頭で考えてみる。
まとまらない。
どころか散らばるばかりの思考を脇において、なんとなく空を仰いだ。
飛行機雲が一つ、目の覚めるような青を横ぎってゆく。のびやかに、ゆったりと。
その青がどこまでも続かないことに思い至って、僕は驚いた。
見上げるこの青の彼方に、いくつもの層を超えて宇宙がある。
その宇宙は、何色だったろう。黒だろうか、白だろうか。それとも色なんて概念は無いんだろうか。
「スペクトラム」
ふと思い浮かんだ言葉を口にして、腑に落ちたような気分で笑う。
人の目に映る色は、光線のほんの一部なのだと誰かが言った。
連続的な光のほんの一部が、僕たちに色を認識させる。ならばその認識が変われば、空の色なども変わるのだろう。
「いや」
そうともいえない。
空は今も色を変えている。
目も覚めるような青から、少しやわらかな薄青。飛行機雲も、そろそろ本来の色を忘れて空に溶けようとしている。
ふと、視線を落とす。
ビルの谷間にぽっかりと、赤茶けた色にならされた区画。物々しい重機。
その向こうで、たおやかに揺れる薄紅。
何度も夢見たような、幻ではなかった。その証拠に、近づいて触れても目が覚めない。
手のひらでなぞった木肌は、ざらつきながら暖かい。
「……僕より高くなるなんて、思いもしなかったな」
見上げる視界一面に、細い枝と小さな花。
シャベルで穴を掘った記憶は、こんなにも近いのに。連なった時間は姿を変えた。……あの日の世界が、こんなにも遠い。
「ただいま」
ささやいてみた僕は笑った。かつて育ったアパートはないけれど、この場所にはこれから、小さなカフェができる。
春には桜が咲くだろう。夏には、若芽がしげるだろう。秋には葉が色づいて、冬には落ちるだろう。
思いを馳せる未来は、あの頃のように輝いていて。僕はかつてそうしたように、樹に体を預けて座り込んで、しばらくそのままぼうっとしていた。
アパートの瓦屋根によじ登って見たそれと寸分違わないようで、だけど同じではありえない空はいつしか、桜の花びらのような薄紅に染まりつつある。
悩んでいたカフェの名前は、もう決まっていた。
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