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 一月一一日。その事実が、初め飲み込めなかった。今は三月のはずだ。寒さも徐々に過ぎ去っていき、春の陽気が近づいていた。段々と桜の季節も近づいてくる。そのはずなのに、季節も気温も真冬に戻っていた。


 一月一一日。スマートフォンでも、テレビでも、ネットでも、他のあらゆる電子機器でも。世界のすべてがその日付を示している。親も友人もみな今日は一月一一日だという。およそ二ヶ月前。


 夢でも見ているのかと思った。目が覚めたら、世界は二ヶ月前に戻っている。夢以外にありえない。けれども一向に覚めない夢。ひたすら現実的で、寒さが身にしみる夢。世界の何もかもが、今は一月一一日だと告げている夢。


 事態が飲み込めない。夢からも覚めない。けれども夢じゃなければありえないこと。一月一一日という日付。それは私にとって重大な意味を持っていた。それは、「あの事故」の前だった。


 夢だ。恐ろしくリアルで、やたら長く、それでいてどこまでも自由に行動できる明晰夢。そんな夢は初めてだった。けれども、これは願いが叶ったのかも知れないとも思った。夢でもいいから、彼に会わせてほしい。彼と話がしたい。


 答えを、知りたい。


 これは夢。しかも一月一一日。そして自分は自由に動ける。ならば彼も生きていて、彼に会うことができるのではないだろうか。


 夢でもいい。なんだっていい。彼に会うことができれば、それがすべてだった。



 放課後、未だに夢から覚めていなかった。私は一人急いで駅に向かい、電車に乗った。学校へ向かうことも考えた。この二ヶ月で彼の通っていた学校もその場所もわかっていた。夢とはいえ、ネットで調べるとそこは確かに自分の記憶と同じ場所に同じ名前で存在した。


 とはいえ、学校に向かうのはあまり得策とも思えない。同じく放課後の時間であり、距離もあるため入れ違いになる可能性もある。家に行くほうが確実だが、いきなり押しかけるのはストーカー同然の行為だ。いや、そもそも夢なのだから別にいいか。けど、かれこれ何時間も続くこの夢は、さすがにもう夢とは思えなかった。


 現実。でもそんなことはありえない。これが現実だとしたら、私は過去に戻ってきたことになる。およそ二ヶ月前に。あの事故の以前に。


 そんなことはありえない。そんなのは、現実的じゃない。けれども現に目の前に、その事実がある。私はそれを生きている。


 タイムトラベル。タイムリープ。そんな感じの言葉。そんなフィクションの世界にしかない出来事。それが、実際、自分の身に。


 ありえない。ありえなかった。こんなの、夢以外ではありえない。これは夢だ。そうに決まってる。神様が与えてくれた、願いが叶う至極長い夢。


 だから彼に会えば覚める。そのはずだ。けれど彼に会える。きっとそのはずだ。だから、どうか彼に会う前に、夢から覚めないでほしい。せめてその時まで、この夢が続いてほしい。


 電車に揺られながら、私はひたすらにそう祈った。



 結局彼の家に向かうことにした。知っている情報としては、彼は部活動の類には入っていない。だからまっすぐ家に帰ってくることもありうる。彼の家はマンションで、その部屋番号も知っている。彼の両親は共働きで、おそらくまだ家には帰っていない。彼には姉が一人いたが、遠方の大学に通っているため家を出て生活していた。


 ともかく、彼が家にいるなら一人。エントランスで部屋番号を押す。チャイムのような音が鳴るが、誰も出ない。もう一度鳴らすが、やはり誰も出ない。おそらく彼は、まだ帰宅していなかった。


 そうであるなら待つしかなかった。エントランスで待ち続けるのは少し気が引けた。目立つだろうし、彼に会った時の言い訳が立たない。


 結局エントランスの入り口が見える外で、うろつきながら待つことにした。けれどもそれにもすぐに後悔する。一月の寒さを舐めていた。防寒着は着ていたとはいえ、三月の気分でいたため沈むのが早い日にも日が落ちた後の寒さにも慣れていなかった。というより忘れかけていた。


 寒すぎた。動いても寒い。やはりエントランスで待とう。けれどもその前に何か温かい飲み物でも飲まなければ凍えて死んでしまう。


 幸いマンションの入口の直ぐ側に自販機があった。私は小走りで駆け寄り、すぐに熱いお茶を買った。コーヒーだとトイレに行きたくなるかもしれない。その点はお茶のほうが安全だった。


 身をかがめ、取り出し口に手をつっこみお茶を手に取る。缶のお茶はとても暖かく、かじかんだ手にとっては救世主だった。


 その時、人が後ろを通ったのに気づいた。お茶を手にしたまま、私は振り返った。


 夜。斜め後ろから。それでも、一目で彼だとわかった。この二ヶ月、何度も見てきた彼の顔。数多の写真。とはいえここ数年の写真は少なかったしその多くは正面からであったが、それでも何度も見てきた顔。というより、もはや直感でわかった。


 それは、彼右馨くんで間違いないはずだった。


「――あのっ!」


 思わず声をかけていた。彼が振り返る。その顔は、やはり彼で間違いなかった。実物はほぼ死に顔しか見ていないし、夜で暗かったが、かろうじて街灯と自販機の光が彼の顔を照らしていた。


 会いたくて、話がしたくてしかたなかった彼の顔が、確かにそこにあった。


「……俺ですか?」


 彼はそう言って自分の顔を指差した。


「……はい。あの、その。急であれなんですけど、彼右馨くん、でしょうか……?」


「……はい。彼右ですけど」


「……ほんとに、彼右くん、ですよね……?」


「はい、そうですけど……」


 彼がそう答える。間違いない。間違いないのだ。


 生きている彼が今、目の前にいた。


 この二ヶ月一度も出なかった涙が、不意に流れてきた。


「――あれ、その、ごめんなさい」


 私はそう言って涙を拭う。けれども涙は止まらない。堰を切ったように溢れて流れてくる。拭っても拭っても、止まらない。まるでこの二ヶ月の間に溜まっていたものが、すべて溢れ出てきたかのように。


「ほんとに、ごめんなさい……こんな急に、いきなり……その、泣くつもりなんかなかったんだけど……」


「あ、いえ……」


 彼はそう答えつつ、若干引いている。なんの前触れもなくいきなり目の前で泣かれたら、誰でもそうなるだろう。けれどもそんな中でも彼はカバンをごそごそと漁り、ポケットティッシュを取り出して私に差し出してきた。


「あの、これ、あげるんで使ってください」


「すみません、ほんと……ありがとうございます」


 私はそう言ってポケットティッシュを受け取り、涙を拭く。ついでに鼻もかむ。当然の生理現象として、涙と一緒に鼻水もどこからともなく溢れ出てきていた。


「すみません、ほんと、すぐ止めるんで」


「いや、大丈夫ですけど……あの、一応これも、使ってください」


 彼はそう言って手に持っていたビニール袋の中身をカバンの中に移し、空になった袋を差し出してきた。


「ゴミ袋にでも」


「すみませんほんと。ありがとうございます」


 私はビニール袋を受け取り、そこに大量のティッシュを入れる。急に人前で泣き出したのが恥ずかしくて顔も上げられなかった。だからその「違和感」にも、気づくことができなかった。それ以前に、そんな余裕もなかったのだが。


「――ほんとにすみませんでした。収まったので大丈夫です。ほんとに、申し訳ありませんでした。ティッシュと袋、ありがとうございます」


「あ、いえ、それは全然大丈夫です。落ち着かれましたか?」


「あ、はい。一応は。大丈夫です」


「そうですか……あの、失礼ですけどどこかでお会いしました?」


「え? ――あの、えっと、私、先沢梓ですけど……」


「サキザワアズサさん? ……同じ中学でしたか?」


 彼はそう言って私の制服を見る。わけが、わからない。彼はまるで私のことなどまったく知らないようにそう話す。それはとても演技には見えない。演技だとしたら、今すぐ俳優になれるレベルだ。

「……同じ中学ではないですけど、あの、ほんとに私のこと知らないんですか……?」


「サキザワさんですよね……すみません。暗いっていうのもあるかもしれないですけど、ちょっと顔見ても思い出せなくて……どういう漢字ですかね名前」


「え、っと、先、先端の先に、さんずいの沢、梓はこう、木偏に辛いで、梓です……」


「先沢さん……やっぱちょっと思い出せないですね。小学校とかですか?」


「……いえ、小学校も、幼稚園とかも、一緒ではなかったんですけど……」


「そうですか……なにか習い事とか」


「……いえ、そういうのでも、一緒になったことはないはずですけど……あの、ほんとに、いきなりこんなこと聞いて申し訳ないんですけど――ほんとに、私のこと、知らないんですか?」


「……そのはずです」


 彼のうろたえた顔。困惑と、それに多少の不安が混じった顔。何かヤバい人間でも見るような顔。それはやはり、どう見ても演技のそれではない。


 彼は本当に、私のことを知らないようだった。


 どういうことだろうか。意味がわからない。だってあの時は、確かに私のことを知っていて、名前を呼んで……それまで一度も、会ったことがないはずなのに。


 いや、違う。これは夢だ。別に過去なんかじゃない。自由に動けたとはいえ、夢は夢だ。すべてをコントロールすることなどできない。


 夢だから、彼が私を知らないのもしかたのないことだった。夢なのだから、あの謎の答えを知ることができないのも、しかたのないことだった。


 全部夢だから。過去に戻ることなどできないのだから。だから全部、しかたのないことだった。


「――そうですよね。わかりました。本当にすみませんでした。いきなり声かけて、いきなり泣いて、名前まで知ってて……どう考えてもヤバい女だと思ったでしょうけど、ちょっと色々事情があって。とにかく、一応ヤバいヤツとかストーカーとかそういうのでは全然ないんで。二度と会うこともないので。だからほんとにすみませんでした」


 私はそう言って深く頭を下げた。


「私はもう行きます。ほんとにご迷惑おかけしました。あとティッシュと袋、本当にありがとうございました。返せなくて申し訳ないですけど、ほんとに助かりました。それでは失礼します」


 私はそれだけ言い、逃げるように駆け出した。


 恥ずかしかった、人前でいきなり泣いてしまった。しかも初めて会う相手。


 そうだ、彼は私のことを知らなかった。夢とはいえそう都合のいいものではないのかもしれない。けれども、あの涙も、この感情も、それに寒さも、とてもじゃないが夢とは思えない。けれども、夢でなければこんなことは叶わない。


 願いは叶った。半分だけだけれども、夢であろうと彼に会うことができた。話すことができた。謎はまったく解決しなかったけれど、それは些細なことでしかなかった。


 彼が生きてた。目の前で、生きて話をしていた。あんなふうに話すのか。あんな顔をするのか。


 わかっている。これは全部夢。全部自分の脳が作り出したもの。自分の妄想。あれは本当の彼ではない。本当の彼がどんな人間なのかは、知ることはできない。それでもよかった。欲を言えば夢だろうと謎の答えを教えてほしかったし、私のことを知っててほしかった。けれどもいいのだ。彼が生きていた。それだけでいいのだ。


 夢からは一向に覚めない。電車に揺られ、家に帰り着いても、夢は続く。その夢は文字通り夢見心地だった。不可能が叶う夢。願いが叶う夢。


 物足りない。満たされない。謎は残る。それでも私は喜びを胸に、眠りについた。たとえ夢から覚めて現実になったとしても、そこに多少の救いはあるだろうと。



     *



 目が覚めても、夢からは覚めていなかった。夢のはずの一月一一日。その翌日の、来ないはずの一月一二日が訪れていた。


 夢ではない。それはもう確信だった。これは、夢じゃない。昨日のも、夢じゃない。どれだけ起きていても、行動しても、夜また眠りについても、一向に覚めぬ長い夢。それはすなわち、これは夢ではないということ。どこまでも現実だということ。けれども、そんなことはありえないはずだった。


 確かに自分はつい一昨日まで三月にいた。一月を抜け、二月も抜け、間違いなく三月が訪れていた。それはただの二ヶ月間ではない。忘れることなどできない、毎日が確かな生の実感をもった二ヶ月だった。あまりにも長く短い二ヶ月だった。あの事故に、彼の顔に、そしてあの謎に支配された二ヶ月だった。それが存在しなかったなどということは、ありえない。


 答えは一つ。時間が戻った。一月一一日に、本当に戻った。タイムトラベル。タイムリープ。そういう類のもの。ありえないけれど、それ以外は考えられないのも。


 自分は過去に戻った。それはもう疑いようのない事実だった。ありえないことが起きたのだ。何故。その答えは一つしかない。私が願ったから。強く強く願ったから。どうか彼に会わせてほしいと。会って話をさせてほしいと。あの謎の答えを、教えてほしいと。


 そう、彼。昨夜出会った、彼。あれは現実だった。あれは本物だった。あれは本当の、生きている彼右くんだった。


 彼は生きているのだ、この世界では。一月一二日では。彼はまだ生きている。あの事故の以前だから。その事実を前に、私は歓喜した。


 生きてる、生きてる。生きてるんだ。死んでなんかいない。昨日確かに、この目で見た。彼が生きている。それはどれほどの喜びだったろうか。けれどもそこで、ふと一つの疑問に行き当たる。


 過去に戻ってきた。昨日、一月一一日。自分は確かに生きている彼に会った。


 でも、彼は私のことを知らなかった。


 おかしい。ありえない。いったいどういうことだろうか。彼の反応は、明らかに初対面の人間を見るものであった。私のことを知らないという言葉には、嘘はないように思えた。けれどもあの時、一月一五日の事故の時、彼が亡くなった時。あの時は確かに、彼は私のことを知っていた。私の方は、彼のことをまったく知らなかったのに。


 逆転が起きている。過去が変わりでもしたのだろうか。けれどもそれは、些細な問題だった。あの大いなる謎の根幹をなす問題だったにせよ。たいした問題ではなかった。今私の目の前には、それよりはるかに大きな問題があった。


 一月一二日。今日の日付。それはあの一月一五日まであと四日であり、同時にあの事故以前だということ。


 そう。この過去では、まだあの事故は起きていない。昨日会ったように、彼はまだ死んでいない。


 私にはあの事故を、彼の死を、止められる。その事実に気づいた時、私の運命は決まった。止めなければ。絶対に、彼を死なせるわけにはいかない。私は知っているんだ。知っているから、止められるんだ。


 彼の死を、変えられるんだ。


 私をかばって死んだ彼。その命を、今度は私が助けることができる。このために戻ってきたんだ。私はそう確信した。それが私のすべきことなんだ。


 今度は私の、番なんだ。




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