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「彼右馨」は大いなる謎だった。私にとって、大いなる謎。
その時何が起きたのかよくわからなかった。あまりにも一瞬の出来事だった。車が突っ込んできた。頭は真っ白だった。
その時、不意に何かがぶつかってきた。正確には誰かに突き飛ばされた。完全に脱力していた私の軽い体は、いともたやすく吹っ飛んだ。結果として、私の体は車の走路から外れた。
道路に倒れた。続いて大きな音がやってきた。それこそ近くに雷が落ちたような大きな音。最初、何が起きたのかわからなかった。振り返ると車が外壁に突っ込んで止まっていた。
そしてそれが目に入った。
少し遠くで、倒れている人。その距離からでもはっきりわかる、あまりにも鮮やかな赤。
私は、自然と立ち上がっていた。周りの騒音など聞こえなかった。立ち上がり、ただふらふらとその人の元へ――彼の元へ、歩み寄っていた。この時はまだわからなかったが、それでも私にはわかった。直感があった。この人が、私を突き飛ばした。突き飛ばされたおかげで、私は車の走路から外れた。
そして代わりに、その人が轢かれた。
血溜まりの中へ向かう。倒れている人体。一人の人間。近づいてわかる。それは若い男の人だった。制服を着ている。多分高校生。自分と同じくらいの歳の男子。けれどもその制服には見覚えはなかった。当然その顔にも、見覚えはなかった。
私は近づいた。倒れている彼の顔を覗き込んだ。
目が合った。瞬間、彼はほっと安堵したかのように、微笑んだ。
「――よかった」
彼はそう言った。そう言って微笑んだ。その言葉はよく聞き取れなかった。
「え……? 今なんて……」
私は思わず聞き返していた。けれどもその言葉は彼の耳には届いていないようだった。彼はなお、心底安堵したかのように――そして歓喜と慈愛が混じったかのような笑みを浮かべたまま、誰に言うでもなく続けた。
「――サキザワさんが、無事で、よかった……」
今度ははっきり、聞き取れた。彼は確かに、こう言った。
「サキザワさんが、無事で、よかった」と。
サキザワ。それは私の名前だった。私の名字。先沢梓。
なんでそれを。そう思った。彼の顔にはまったく見覚えがなかった。制服が違う。同じ学校ではないはずだ。
「なんで……」
言葉が私の口をついていた。けれども答えはなかった。彼はもう、目を閉じていた。何の反応も示さなくなっていた。
「ねえ……なんで、どうして……」
私は思わず彼の肩を揺さぶっていた。彼は動かない。何の反応も示さない。周りの人に止められ、引き離され、私はようやく我に返った。
サイレンの音が近づいていた。人だかりができていた。誰かが彼に必死に声をかけていた。人工呼吸は、していなかった。あれ程の事故だ。全身を大きく損傷しているかもしれない。それ以前に、彼が助からないことは誰の目にも明らかだった。私はただ突っ立って、動かず眠る彼の顔を見ていた。
やがて救急車が来た。彼の体はそれに乗せられ、運ばれていった。
そうして「彼」は、私の前から姿を消した。
*
彼右馨。それが彼の名前だった。私を突き飛ばし、私を助けた彼の名前。
彼が私を突き飛ばしたのは確かだった。目撃証言と近くの防犯カメラがそれを証明していた。彼は確かに私を意図的に突き飛ばした。車に轢かれぬよう。そして代わりに、自分が轢かれた。
彼右馨。その名前にはまったく見覚えも聞き覚えもなかった。珍しい名字だ。一度でも見たことがあれば覚えているはずだった。しかしどれだけ思い出そうとしても心当たりはない。彼の顔にも、まったく見覚えはない。
私は彼を、知らなかった。
けれども彼は、多分私を知っていた。
それは確信。彼のあの顔。名前を呼ばれたこともそうだが、それよりもあの顔。あの顔はいったい、なんだったのだろう。
あんな顔は、これまで見たことがなかった。正真正銘の安堵と喜びだけがそこにはあった。彼は、私が無事なのを見て本当に安堵していた。本当に、心から喜んでいた。あの言葉の通り。あの言葉に、一切の偽りはない。それは私の直感であり確信だった。普通、人は、赤の他人にあんな顔はできない。身を挺して助け、死の間際に、痛みと出血の海の中で、あんなにも心の底から他人を思い「よかった」などとは言えない。言えるわけがない。
彼はいったい、なんだったのか。彼はいったい、誰だったのか。
彼にとって私は、いったいなんだったのか。
知りたかった。どうしてもその答えを知りたかった。あの顔が、私の網膜に焼き付いて一生離れなかった。私の思考のすべてを支配した。
何故、どうして……なんであなたは、あんな顔をして私を見たのか。なんであなたは、私を知っていたのか。なんであなたは、自分を犠牲にしてまで見ず知らずの私を助けたのか。
それは大いなる謎だった。永遠に解けない、絶対的な謎。何故ならその答えを知る唯一の人物は、彼右馨は、死んでしまったから。
*
病院についてすぐに、彼の死亡は確認されたらしい。彼が死んだ。その事実を聞いても、涙は出てこなかった。まだ何もわからなかった。私にわかることなど、何一つなかった。わかっていることは一つだけ。
彼は死んだ。代わりに私は生きている。それだけだった。
見知らぬ男子。その死を聞いても、実感などまったく湧かなかった。あの一瞬しか会ってない人間。ほんの僅かな間、一瞬だけ――けれども死の直前という、人間の一生においては最も重要な時間。その一瞬、言葉を交わしただけ。あんなことがあったとしても、彼は私にとって他人同然だった。けれども当然、他人などとは思えなかった。思っていいわけがなかった。
知りたかった。すべてを知りたかった。大いなる謎。その理由。彼が何故私を助けたのか。何故私を知っていたのか。何故あんな顔で、私を見たのか。
私は彼の葬儀に行った。行くしかなかった。行かないなどということはありえない。どういう顔で行き、どういう顔で彼の家族に会えばいいのかわからなかった。けれども行かないことなどありえなかった。彼は私を助けて死んだのだ。私のせいで、彼は死んだのだ。
葬儀場で、彼の死に顔を見た。ニュース映像など以外では数日ぶりに見る、彼の顔だった。それはあの血溜まりの中で眠る彼の顔とあまり変わらなかった。けれどもあの笑みはそこにはなかった。そしてやはり、どれだけ見ても彼の顔に見覚えはなかった。あの日以前に、見て知っている顔ではなかった。
それは大きな遺影の写真でも同じだった。こちらに向かって微笑む彼の顔。生前の顔。しかしやはり見覚えはない。どれだけ見ても、思い出そうとしても、記憶の中に彼の顔はない。
私は彼の家族に挨拶をした。どのつら下げて、という思いもあったが、葬儀にまで来て挨拶をしないなどということはありえなかった。
「ご愁傷様です」。そんなことしか言えなかった。他に言葉を知らない。葬儀など、未だ経験したことがなかった。祖父母は共に健在だった。曾祖父母は、遠方かつ関わりが少なく、自分もまだ幼かったということで葬儀には出ていなかった。たとえ出ていたとしても幼すぎて何も覚えていなかっただろう。子供には葬儀の作法もないに等しい。どうすればいいのかなどわからない。何を話せばいいのかも、わからない。けれどもとにかく、その場では頭を下げるしかなかった。
涙も流さず薄情だとも思った。けれども出ないものは仕方なかった。あまりにも現実感がなかった。彼は死んでしまったが、それ以前に彼は私の人生に存在しないも同然の人間だった。あの時唐突に私の目の前に現れ、そして一瞬で去ってしまった人間。
彼の家族の私への気遣いにも、心が痛かった。ここではあれだから、後ほど別の場所で話すことはできる? と言われた。断ることなどありえなかった。断る権利など、私にはなかった。私にできることはなんであろうとしなければならなかった。たとえ罵られるとしても、殴られるとしても。それは私の責任だった。
けれどももちろんそんなことはなかった。彼の家族はただ私に彼の最期について聞いてきた。彼の最期。そして、私たちの関係について。
「目撃者の証言だと、あの子は最期に先沢さんと何か話をしていたみたいだけど」
「はい……話と言えるほどのものではないんですけど、確かに言葉を、少し交わしました……」
「そう……あの子は、あの子は最期に、なんて言ってたの……?」
「……『よかった』と」
「よかった……?」
「はい……よく聞き取れなかったんですけど、多分最初は、そう言ったように聞こえました……それで私は、思わず聞き返して。『今なんて』って。そしたら彼は――これは、多分聞き間違えじゃないと思うんですけど、『サキザワさんが無事で、ほんとによかった』と、確かに、そう言いました……」
「……サキザワさんというのは、もちろんあなたのことよね」
「はい……多分、そのはずです……」
「あなたはあの子と知り合いだったの?」
「……それは正直、わかりません。知り合いじゃなかったはずです。私は、彼のことを知りませんでした。名前は当然、彼の顔も、まったく見覚えがなくて……それは今も、あの後も何度も彼の顔を見て、必死に思い出そうとしてきたんですけど、でもやっぱり思い出せなくて……だから多分、私は彼と、会ったことはないと、少なくとも知り合いではなかったと、そう思います……」
「そうなの……でも彼は確かに、あなたのことをかばって、その、轢かれたのよね」
「……はい。多分、そのはずです。自分には見えなかったですけど、私もその、ビデオの映像は、見させていただいたので……」
「そう……ごめんなさいね。こんな時にこんな場で、こんな話をしてしまって」
「いえ、こちらこそはっきりとしたことを言えなくて申し訳ありません……」
「いいのよ、気にしないで。あんなことがあったのだし、まだ時間も経ってないのだから。けどその、私たちも色々知りたくて。先沢さんも大変だと思うけど、今度またもう少しお話することはできる? あなたが忘れてしまっただけで、もしかしてあの子と以前どこかで、昔会ったことがあるのかもしれないから。あなたの言葉が本当なら、あの子は確かにあなたのことを知ってたはずだし、それに多分自分の身を犠牲にするほどの相手だったはずだから」
「……はい、もちろん。なんでもご協力しますし、それに私も、彼のことをちゃんと知りたいので、ご迷惑でなければ、教えてください」
その場ではそうして別れた。
*
後日、私は約束通り彼の家族に会いに行った。彼の家に。彼が育った家に。そして彼の部屋に。
そこには骨壷が置かれていた。彼の遺影と共に。人の体というのはあれほど大きくてもここまで小さくなるのか、そう思った。遺影の写真は、やはり何度見ても思い出せなかった。私が知る彼の顔は、この目で確かに見た彼の顔は、死に顔とあの最後の微笑みだけだった。
彼の家族は私に彼のことを話してくれた。生まれた場所。育った場所。幼稚園から学校、習い事まで。そのどれもが、私とはまったく被っていなかった。東京という同じ場所に生まれたが、その生活範囲は大きく異なっていた。離れている。子供の足で簡単に行ける距離ではない。接点などどこを探してもない。どれだけ考えても、やはり私は彼とは出会っていないはずであった。
アルバムも見せてもらった。小さい頃からの写真。成長の過程。それを見てもやはり、思い出せない。見覚えはまったくない。どれだけ思い出そうとしても、彼の情報は何も出てこない。
「もしかしてあの子が一方的に知っていただけなのかもね」
と彼の母親は言った。
「どこかで見かけて、一目惚れしたとかで。それでストーカーみたいなことをして。先沢さんには迷惑な話だろうし、怖いとは思うけれど。事故現場だってあんなところ、なんの用もないはずだし。普段行かないような場所だし。なんであの子は、あの時あそこにいたのかしら」
それは誰にもわからない問いだった。答える者のいない問い。答えを知るものが、いない問い。けれども考えられるのはそれくらいだった。私には、どれだけ考えても身に覚えがない。
ストーカーだった。そう言われてもピンとこない。恐怖はないし、気持ち悪いとも思わない。そもそもなんの証拠もないのだ。彼は日記などをつけてるわけでもなかった。遺品整理で私に関する何かが出てくるわけでもなかった。スマートフォンは、死者のプライベートを尊重するということで家族も中身を見ていなかった。そもそもが状況からの憶測に過ぎず、死者を侮辱するようなものだ。家族も別に本気で言っているわけじゃないことはわかっている。私もその「意見」に与するつもりもなかった。
ストーカーならストーカーでいい。そのほうが答えがわかってスッキリする。謎が解ける。大いなる謎の解答であればなんでもよかった。けれどもどれだけこの世を探しても答えなどあるはずもなかった。彼が文字通り、墓場まで持っていってしまったのだから。
家族のおかげで、彼を知った。彼について知った。でも何もわからないも同然だった。聞く限り彼はどこまでも普通の高校生だ。クラスメイトなどと何も変わりない。けれども、私にとってはあまりにも特別であまりにも謎な存在であった。知れば知るほど、聞かされれば聞かされるほど、謎は増える。
どうして。何故。何もわからない。私たちにはなんの接点もないはずだ。とても大きな接点。東京生まれ東京育ち。そして同学年。それ以外に、共通することなど何一つなく、共有することはおそらくそれ以上に少なかった。
何故、どうして。どれだけ彼に関する情報が増えても、何もわからない。疑問は、謎はますます深まっていく。深まれば深まるほど、私はその答えを知りたくてたまらなくなっていった。わからない。わからない。いったい何故。あまりにも巨大な空白。その空白を前にすると、人はそれをどうしても埋めたくてしかたなくなる。
知りたい。教えて欲しい。自分の身を犠牲にし、自分の命を投げうって人を助けるなど、簡単にできることではない。たとえ愛する人が相手でも、そう簡単に体は動くものではない。それなのに、見ず知らずの人間に。いったい何故。
いや、見ず知らずの人間ではないのだ。少なくとも彼にとっては。それが謎。それだけじゃなく、彼にとっての私。あの表情。あの顔。それが脳裏から離れて消えない。
何故、何故。何故あなたは、死を目前にして、あんなふうに笑ったのか。あんな顔で、私を見たのか。
あのような、心からの安堵をもって、私を見て微笑んだのか。
それを知りたい。その理由を。誰か教えて欲しい。けれども誰もわからない。彼以外に、それを知るものはいない。
彼と話をしたい。彼と話をさせて欲しい。心底そう願った。たとえ夢でもいい。たった一度でもいい。どうか彼に、会わせて欲しい。話をさせて欲しい。
あの理由を、聞かせて欲しい。
私は願った。心底願った。その思いにすべてを支配されていた。毎晩毎晩、神に祈って眠りについた。神などというものがいるのかもわからない。いるなどと思ったこともない。ほとんど完全な無宗教に近い。それでも、他に願える相手などいなかった。
どうか、一度だけでもいいから、彼に会わせてほしい。
願って、願って、願って、眠りについた。
けれども彼の夢など見ず、目は覚めた。
そして世界は一変していた。