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彼女が死んだ。まただ。一月一七日。一日だけ延びたが、結果は変わらなかった。
子供が飛び出した。助けようとした。昨日の今日で。けど、彼女にはそんなことは関係ないのだろう。その優しさこそが、気高さこそが、彼女が彼女であるゆえんなのだろう。最初と同じだ。初めて会った時。あの時と、何も変わらない。自分の身を犠牲にしてでも、誰かを助けようとする。
責めようなどとは思わない。なんで、とも思うが、それは運命に対する怒り。彼女の行動に、怒りなど感じない。彼女は何も悪くない。彼女はいつだって正しい。彼女は、死ぬべき人間ではない。生きていなければならない人間だ。
死よ、かかってこい。何度でも俺はやり直してみせる。何度でも彼女を守ってみせる。
何度でも、何度でも、何度でも。
それが彼女の気高さに対する、俺の答えだ。
*
彼女を助けた。
また死んだ。
また戻る。
*
彼女を助けた。
一日を更新した。
けれどもまた死んだ。
また最初に戻る。
*
彼女を助けた。
一日を更新した。
けれどもまた死んだ。
また最初に戻る。
*
助けた。死んだ。戻る。
助けた。一日を更新した。また死んだ。また戻る。
助けた。死んだ。戻る。
助けた。死んだ。戻る。
助けた。死んだ。戻る。
助けた。死んだ。また、戻る……
もはや何度目かわからない。途中から数えることもなくなった。体感時間で、自分の時間で、一年という時間が過ぎていたかもしれない。
ある時から一日を更新することも困難になってくる。途中でミスをすることも出てくる。これまでにはなかった事態も生じてくる。けれども負けてなどいられない。諦めてなどいられない。何度だってやり直す。何度だって戻ってみせる。
けれども、蓄積する疲労は凄まじかった。
体は疲れてなどいない。体はそれまでの疲労など記憶していない。体は一月一一日に戻るたび、その時の体にリフレッシュしている。
けれども脳は違う。正確には脳ではないのかもしれない。けれどもとにかく、これまでの経験はすべて記憶されている。蓄積されている。それは疲労となってのしかかる。
不能。無力感。届かない。掴めない。辿り着けない。成功しない。何度繰り返しても、無理だった。無駄だった。変えられない。変わらない。一体どうすれば。本当にこれで正しいのか。何もかもがわからなくなってくる。
諦めたい。終わりにしたい。そんなことが頭をよぎるたび、彼女のあの顔を思い出して自分を奮い立たせた。何度繰り返しても一生忘れることなどない、あの顔。初めて会った時の、彼女のあの微ほほ笑み。安堵に満ちた、その表情。すべての出発地点。大いなる謎の、その始まり。
それを思い出せば、何度でも自分を奮い立たせられる。立ち上がれる。やり直せる。
諦められるか。諦めてたまるか。俺はまだ、何もわかっていないんだ。あの笑みの意味を、何一つ知っていないんだ。
彼女を守るんだ。助けるんだ。生かすんだ。
彼女にもらった命を、ちゃんと返すんだ。
都合何度目かわからない。しかし変わることなき思い。強く、強く念じ、俺は眠りについた。
それは次なるループのための眠りであった。
*
もう何度目かわからない。また一月一一日に戻ってきた。これまでの繰り返しの中で、俺はある一つの仮説に思い当たっていた。そしてそれは、このループの始まりにも直結していた。
何度も繰り返してきてわかった。その予感。可能性。俺は彼女を助けられない。彼女の死は変えられない。決して動くことのない運命。諦めとは違う、どうしようもない事実。圧倒的な不条理。けれども、それを回避できる可能性も一つだけある。
考えればわかることだ。原点に立ち返れば、思い当たる可能性であった。すべての始まり。ループの始まり。彼女の死。
あの時、彼女は身を挺して俺を守った。俺が死ぬ代わりに、彼女が死んだ。そうして俺は生き残った。けれども、彼女は死んだ。いなくなった。それは何度繰り返しても、変わることのない事実だった。
彼女が死に、俺が生きる。何度彼女を助けても、また別の形で死んでしまう。俺は生き残り、彼女は死ぬ。そこから考えられる帰結。
もしかして、この世に生き残れるのはどちらか一人だけなんじゃないのか?
そうだ。あの時を境に、この世界は俺と彼女どちらも生きることが不可能な世界になってしまった。何度繰り返しても、それは変わらない。彼女は死ぬ。どうしたって死ぬ。けれども、それは俺が生きているから。彼女が何度死んでも、俺は生きている。
俺が生きている限り、彼女は死んでしまうんじゃないのか?
あの時もらった命。彼女に与えられた、この命。一つの命。一つだけ。どちらか片方。俺が生きている限り、彼女は死ぬ。彼女が死んだからこそ、俺は生きている。
俺が死なない限り、彼女は生きられない。
それは仮説。仮説に過ぎない。保証などどこにもない。それで失敗したら、それで俺が死に、彼女も死んだたら、共倒れになる。そうしたら二度と彼女を守ることはできない。
あまりにも大きい賭け。けれども、それ以外にもう道はないように思えた。散々繰り返した。けれども一向に答えは見えない。答えなどあるのかもわからない。それ以外にもう、手段はない気もする。
諦めか。投げやりになってないか。そうも思う。疲れすぎて正常な判断ができていないのかもしれない。けれどもこんな正常から程遠い状況下で、正常な判断などというものがあるのだろか? 何が正常かなど、誰にわかる?
わからない。けれども死んでしまえばもう後戻りできないことだけは確実だった。ポイント・オブ・ノーリターン。二度と後戻りできないその地点。もしかすると死んでもまた戻れるのかもしれない。けれどもそれは誰にもわからない。確証などあるわけもない。これまで以上の、比較にならない未知。
それでも、その可能性は頭から離れなかった。
*
結局同じことを繰り返すしかない。繰り返し、なんとか今まで到達したことのない新たな「明日」に辿り着き、その先にあるかもしれない希望にすべてを託すしかない。
わからない。わからないは恐ろしい。そんなことはあの日まで、何も知らなかったあの日まで、考えたこともないことだった。
とにかく同じことを繰り返す。もう何度目かわからない行動。もはや冬は永遠の季節になっていた。春までは辿り着く。しかし夏は、真夏は程遠い。もう一年会っていない。あの焼けるような暑さに、辿り着けない。もはやあの熱も思い出せない。懐かしさすら思う。本当に夏などというものがあったのか。あんな暑さが、この世界に存在していたのか。
しかし信じるしかない。信じて行動するしかない。たどり着けると、この永遠の冬の先に必ず夏があると信じて。それは俺たちどちらにも来ると、必ずあの日差しが俺たちを迎えてくれると信じて。
何度も彼女に会い、一日を更新していき、彼女とより親しくなっていくことで、それまで知らなかった彼女のことを俺はよく知るようになっていた。戻ってしまえばすべてはじめからやり直しなのだが、それでも自分には蓄積した彼女との思い出がある。彼女についての情報がある。話し、笑い、一緒に過ごした。それがすべて待ち構えている彼女の死から逃れるためであっても、その間だけは純粋で穏やかな時間が流れていた。
もはや俺にとって彼女は謎でもなんでもなくなっていた。初めの謎、あの大いなる謎。何故彼女が俺を知っていたのか。何故身を挺して助けたのか。何故、あんな顔をしたのか。その理由はどれだけ関係を深めてもわからなかった。けれどもそんなことはもはやどうでもよくなっていた。俺にとって彼女は、自分が日々知っていく目の前の生きている彼女であった。そうして彼女と過ごす時間が増えると、彼女の存在はもはや単に助ける対象ではなくなる。より確かな、かけがえのない存在に。
電車の事件で知り合う。あとはある意味お決まりのルート。しかし出会いが出会いなので違和感は少ない。それはありがたかった。とはいえそのような悲惨な事件からグイグイと距離を近づけすぎるのも危険だった。心証が悪い。警戒される。彼女の友人の存在はそのクッションとなった。事件で心に傷を負った者をそのように見ることは失礼だったし、実際自分も彼女のことは心配であった。彼女の見舞いとして俺は先沢さんと何度も会うことができた。俺は同じ事件の被害者として彼女の友人を心配する人間としてそこに関われた。極自然な形で彼女と関わることができた。
彼女と何度も話した。彼女が友人を心配する気持ちは本物だった。その優しさは、思いやりはとても深いものだった。それが何よりも雄弁に彼女がどういう人間なのかを語っていた。理由はわからない。未だに謎は謎のままだ。それでも、何故彼女が自らを犠牲にして俺を助けたのか、その根本がわかった気がした。たとえ俺のことを知らなくとも、根は変わらない。同じ人間だ。この優しさこそ、思いやりこそ、慈しみこそが先沢梓という人間なんだと。
俺は知った。知って、話した。彼女にどんどん惹かれていった。始まりが始まりで状況が状況であったが、彼女の存在は自分の中であまりにも大きなものになっていた。その気持ちを伝えてしまいたいとも思った。けれども、状況が状況で、俺たちの出会いが出会いであり、関係が関係だ。俺にとっては何度も何度も会ってきた相手とはいえ、彼女にとっては事件をきっかけに知り合ってまだ数ヶ月しか経っていないような人間。彼女だってそんな場合じゃないし、そんな余裕もないし、何より早すぎる。それで関係性を壊してしまう方が恐ろしかった。間違えるな。自分の目的を忘れるな。自分が戻ってきたのは、彼女とどうこうなるためじゃない。彼女を死なせないため。彼女を生かすため。自分の欲求など捨てろ。自分の想いなど捨てろ。戻ってきた。彼女が無事。それ以上の幸福はあるだろうか。それ以上に望むことなど、あるだろうか。だからどれだけ彼女を好きだという思いがあっても、何もせず、ただ自分の目的を遂行しろ。
彼女を死なせたくない。それは変わらない。けれども、それに加え、彼女を失いたくない。死んでほしくない、生きててほしいという思いの意味合いが変わっていく。思いの強さが、変わっていく。それが何度でもループを繰り返せる原動力になっていた。
何度でも、何度でも。これがダメでも、次こそ。
次こそは、何かを変えられるはずだと。
*
俺は行動した。いつも通り。そうしてまた一月一五日を迎えた。それはもう何度も繰り返したゲームのようなものでしかない。もはや作業。恐怖などとうの昔に消え失せた。
彼女が出てくる。店を出る。彼女をつける。もう何度目かわからない。何度も見た光景。この一年、俺にとっての一年、俺は毎日のように彼女を見てきた。彼女以外何も見ていないに等しい。けれども今の彼女は、目の前にいる彼女は俺のことなど知らない。会ったこともない。話したこともない。名前も当然知らない。何度でも、最初からのやり直し。それに一抹の悲しさを覚えることもある。けれどもそんなことにももう慣れた。彼女が無事でありさえすれば、それでいい。彼女にとっての何者かになりたいわけではない。
ただ一心に。この命にかえてでも、彼女を守りたい。彼女を生かしたい。それ以外に、俺に存在の理由などなかった。
突然、これまでにないことが起きた。目の前から車が猛スピードで突っ込んでくる。歩道に乗り上げ、歩道を走る。
そしてそれが、こちらに向かってやってくる。
体は無意識に動いていた。一歩を踏み出していた。全力で、その数歩。
彼女を、突き飛ばす。車が、突っ込んでくる。
全身にものすごい衝撃が走った。
意識はあった。もはやそれが意識なのかもわからない。しかし「自分」は、確かにここに残っている。
何が起きているかわからない。体はぴくりとも動かない。音も聞こえない。視界が白い。
ああ、俺は……俺は死ぬのか……
これが、死なのか……
薄れゆく意識の中、目の前に見知った顔が映った。この一年、何度となく見てきた顔。もはや俺の人生のすべてとなった顔。
先沢梓の、その顔。
彼女がその顔で、何かを呼びかけている。けれどもよく聞きとれない。そんなことよりも、俺には安堵しかなかった。ただひたすらに、安堵していた。
「よかった……」
ただそう、口をついて出ていた。無意識。思った言葉が、そのまま口から出ていた。その言葉が、本当に音になっていたかはわからない。けれどもそれ以外に言葉はなかった。想いはなかった。
ただ、本当によかった。
自然と、顔はほころんでいた。安堵から、いつ以来かわからぬ笑みが浮かんでいた。どっと力が抜けた。抜けて、ただただ歓喜しかなくて、痛みも死の間際も関係なく、俺は笑っていた。
彼女が何かを言う。先沢梓が口を開き、何かを言う。けれどもその言葉は俺には届かない。俺にはもう、たった一つの想いしかない。
「先沢さんが、無事で、よかった……」
唯一の思い。最後の思い。最後の言葉。それ以外に、俺というものは存在しない。
もう目も開けられていない。何も見えなくなる。音も消える。すべての感覚が、消えていく。
よかった。本当によかった。先沢さんが無事で、本当に、本当に……
薄れゆく意識の中、ただ安堵と歓喜だけを持って、俺は沈んでいく。消えていく。
よかった。ほんとに、よかった……
返せた。ちゃんと、もらったものを返せた。
同じだ。これで同じ。最初と同じ。あの時もらったものを、ただ返しただけ……
同じ。俺も、同じ……
同じ……最初と、同じ……
――もしかして……