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その日の午後。寒空の中俺は彼女が通う高校の前で彼女が出てくるのを待ち続けた。といってもただの道端で動かず待っていては不審者として通報されてしまう。校門のすぐ前にカフェチェーン店があったのは幸いだった。暖を取りながら待つことができる。といってもそれも事前の下見で確認済みであった。
下見で確認したのはそれだけではない。学校から駅までのルートに、駅構内の様子からホームまでの道のり。当然学校周辺も。彼女がどこから外に出てくるか、というのは後をつける上では死活問題であったが、幸いこの学校は常時開いていて生徒が使える校門が一つしかなかった。事前の下見で、彼女がそこを使っていることも把握済みだった。
そういう自分の行動を振り返ると、完全にストーカーの類でしかない。けれども自分はストーカーなんかじゃない、と自分に言い聞かせる。ストーカーなんかとはまったく異なるものだ。ただ彼女を守り、事件の被害を少しでも食い止めたいだけだ。それはあんな過去がなければヒーロー気取りの酷い妄想でしかなかったが、自分にははっきりと鮮明な記憶がある。二回。二回も彼女は死んだのだ。二度も、彼女の死に顔を見たのだ。葬儀を見たのだ。
あんなものは、二度と見たくない。誰だってそうだろう。自分と同じ立場であれば、誰だって同じことをするはずだ。
非現実の中で、俺は自分を見失わないようにしていた。過去が、あの記憶が自分をしっかりと自分に繋ぎ止める。自分の目的を、役割を明確にしてくれる。自分はなんのために過去に戻ってきたのか。何を願い、祈ったおかげで、今ここにいるのか。
窓際の席から学校の校門を見つめ続ける。時計を見て、そろそろ六限目の授業が終わることを確認する。そろそろ、いよいよだ。
スマートフォンでニュース速報などを確認する限り、事件はまだ起こっていない。警察に連絡をして今日電車で無差別殺傷事件が起きることを警告する、ということも考えはした。けれどもそれを警察が真に受けて警備するとは考えにくい。逆に自分がテロの予告をしたとして逮捕される恐れもある。そもそもそれだけ警察が大勢見回っていては、犯人も事件を起こさないかもしれない。起こさないのであればそれに越したことはなかったが、別の日に別の場所で実行するという恐れもあった。そうなってはもう、自分には何もできない。
自分でやるしかないのだ。自分で、自分一人で。改めて自分に言い聞かせる。これは間違いじゃない。これは正しい選択だ。俺がやるんだ。俺が、やってみせるんだ。
今度こそ、彼女を、死なせたりはしない。
*
最終六限目終了のチャイムが鳴ってからしばらく経った後、彼女が友人とともに校門から姿を現した。下見の際とほとんど時間が変わらなかったため、準備はしっかりできていた。俺は急いで席を立ち、店を出て彼女の背を追った。
駅が近づくにつれ、心臓の鼓動は徐々に大きくなっていった。これから、事件が起きる。自分はほとんど身一つで、何人も殺し傷つけた人間と対峙しなければいけないかもしれない。刃物。そんなものを人から向けられたことなどない。それを振り回す人間など見たこともない。包丁は毎日のように家で見ているし、使ったことも何度かあるが、それはあくまで料理の道具。野菜などを切るものでしかなく、武器ではなく殺人の道具でもない。そもそも相手の刃物は包丁とは限らない。サバイバルナイフのような、より殺傷能力の高いもの。
服の上から体を触る。防刃ベストの感触は確かにある。どれほど効果があるかはわからないが、胴体に、内臓に一撃で致命傷を負うということはないだろう。とはいえ手足を狙われるかもしれない。刃物で切られたら、どれほどの痛みがあるのだろう。想像もつかない。痛みだけで手が動かなくなるかもしれない。首なんかに攻撃を受ければ、そのまま致命傷になるだろう。
やはり防刃ベストを着けているとはいえ、ほんの少しも傷を負うわけにはいかない。そもそも刃物を持って襲いかかってくる相手に、正面から対峙することなんてできないかもしれない。やはり背後から。背後から、確実にスタンガンを電力マックスで当て、一撃で気絶させる。
それしかない。それしか。たとえ誰かが傷ついても、囮にしてもそうするしかない。大丈夫だ。致命傷じゃなければ助けられる。すぐに治療を施せば、助けられる。
俺はひたすら呼吸をした。ネットで前もって調べてきた。怖気づくことはわかっている。体が震えて動かなくなることもわかっている。だから少しでも緊張をほぐすため、落ち着きを取り戻すため。その方法も調べておいた。
ボックスブリージング。アメリカ軍の特殊部隊もやっているという、自律神経を整えリラックスするための呼吸方法。四秒吸って、四秒止めて、四秒吐いて、四秒止める。その繰り返し。呼吸だけに集中する。視線は彼女の背からは離さずに、呼吸だけに集中。それでもやはり、駅に着いた時の心臓の跳ね返りは抑えることのできないものだった。
いよいよだ。いよいよ、あと数分、せいぜい十数分であれが始まってしまう。
本当に正しいのか? 本当にこれでいいのか? 彼女をなんとか電車に乗せないようにして、その上で犯人を抑えればいいんじゃないのか?
そうだ。乗る電車さえわかればいい。彼女が乗るその瞬間、彼女を乗せないように、邪魔したり突き飛ばしたりなんかして、とにかく乗せないようにすればいい。そうすれば確実に彼女の身を守りつつ、事件が起きる電車もわかる。
いや、違う。もし失敗して自分も乗れなければ事件は防げない。そもそもそうして電車に乗ってしまえば完全に彼女と離れ離れになってしまう。自分がいないその先で、また何かしらの死が待っているかもしれない。
やるんだ、全部。彼女を守りつつ、他の人も守る。犯人を抑える。それが一番、確かなんだ。信じろ、信じるんだ。自分にはできる。自分にはやれる。これでいい。これが正しい。
もう後戻りはできない。自分を信じて、やるしかないんだ。
時間の進みが、わからなくなる。早いのか遅いのかすらわからない。極限下で感覚が狂う。とにかく呼吸と、彼女の背。幸い駅の人混みはさほど多くない。見失うことも離されてしまうこともなかった。
そうしてホームにやってきた。心臓の音が肉体のすべてを支配していた。心臓が飛び出る、というのがどういうことなのか初めてわかった。とにかく呼吸。呼吸。そして彼女。
正面に立ち、友人と話す彼女の笑顔。そうだ。彼女だ。先沢梓だ。彼女を、守るのだ。死なせないのだ。そのために自分は、ここにいるんだ。
思い出せ、彼女の死に顔を。あんなのは、二度とごめんだ。
思い出せ、彼女の顔を。声を、言葉を。初めて会って、いきなり泣きじゃくったのに、優しくティッシュを差し出してくれた、彼女のあの思いやりを。
思い出せ、すべてを。それを全部、明日へと続かせるために。この一月一五日を越えるために。
やるんだ。やってやる。
俺は、やるんだ。
ポケットの中でぎゅっとスタンガンを握りしめた。ホームに電車が入ってくる。停車する。ドアが開く。人が降りてくる。前方で彼女が友人とともに乗り込む。自分も、それに続いて乗り込む。
ドアが閉まる。密室の完成。もうどこにも、逃げられない。
ただひたすらに、心臓の音だけがした。
ガタンガタン、という電車の揺れで胃液がせり上がってくるのを感じる。次の瞬間にもこの場に吐き出してしまいそうだった。それも一つアリかとも思えた。乗客が車内で吐いたあと、そこで殺傷事件をおこそうとするような犯人はいるだろうか。
わからない。わからない以上、吐けない。吐けば少なくとも車内にある程度のパニックが生じる。人が動く。密集する。そんな中で事件を起こされたら。第一すぐそばの彼女もどこに行ってしまうかわからない。近くにいる。それが一番、確かなこと。
確実に彼女の位置を確認しつつ、俺は車内の人々にも目を配っていた。顔、表情。カバン、手の動き。そうして見回していると、ふとデジャヴのような感覚に襲われた。
見覚え。そう、見覚えがあるような気がする。あんなどこにでもいるようなメガネをかけた男性に、何故か強烈な既視感を覚える。
まさか。
座っている男の膝の上には、カバンが置かれている。そのカバンの中に、右手が突っ込まれている。
体は、瞬間的に動いていた。
わからない。まだわからない。それでも何かがはっきり告げている。確信がある。
こいつだ。こいつのはずだ。右腕から視線を離さない。あれが出てきた瞬間。その手に刃物が握られていた瞬間。
ポケットに突っ込んだ両手。その中でスタンガンと催涙スプレーを握っている。刃物が、刃が見えた瞬間。その瞬間に、両手を抜く。催涙スプレーを浴びせる。スタンガンをマックスで押し付ける。
イメージしてきた、実際体を動かし確認してきた、一連の動き。
男がカバンから右手を抜き出す。その手には――刃渡り一五センチはありそうな、巨大なナイフ。
「うわああああ!」
男は突然奇声を発し、立ち上がる。その瞬間、俺も左手を突き出していた。
「うおおおおお!」
叫んだのは、反射だった。何も意図はしていない。ただ男の叫びに呼応しただけ。しかし結果的にそのおかげで男がこちらを向いた。その顔面に真正面から、催涙スプレーを思い切り吹き付けた。
けれども、相手はメガネをかけていた。誤算だった。しかし催涙スプレーはメガネの隙間からもある程度入ったし、何より鼻や口にも効果がある。相手は思わず顔を抑え、咳き込む。
咳き込むのは自分も同じ。至近距離で催涙スプレーを吸い込んでしまい、喉が刺激されガホっと咳が出る。けれども止まってはいられない。運良く作れたこの隙。
思い切り右手を押し付ける。そしてそのままスイッチを入れる。バチンッ! という大きな音とともに、男の体が跳ね上がった。
まだ足りない。わからないけど、安心はできない。そのままスタンガンを体に押しつけ、スイッチを入れ続ける。男の体がビクビクと揺れる。男の手から、ナイフが滑り落ちる。
やった! と思った。すかさずスタンガンをその場に落とし、男の体を引っ張り床に引き倒した。男の体にはもう力はなく、そのまま崩れ落ちた。この時点ですでに意識がなかったのかもしれない。けれども何もわからない。安心はできない。俺はそのまま男を押さえつけ、抵抗されないのを確認し、素早く両腕を後ろに持ってきて、このチャンスにと男の両手を簡易手錠で縛り上げた。
終わった。すべてが終わった。瞬間、どっと安堵が訪れ、その場に崩れ落ちそうになった。
車内は騒然としていた。そのことにすべてが終わってからようやく気づく。密室の車内で催涙スプレーを噴射したため、咳き込んでいる者も見受けられる。自分と犯人を中心に人が避け空間ができていた。
「――すみません! 犯人は確保しました! 多分気絶してるけど取り押さえとくために何人か男の人来てください!」
俺はそう呼びかける。そこでようやく電車が緊急停止していることにも気づく。俺の呼びかけに最初は反応はなかったが、しばらくして何人かの男性がようやく小走りにやってきた。
「犯人は気絶してますし手は結んであるんで大丈夫だとは思いますけど一応念のため数人で床に抑えといてください。多分まだ刃物とか持ってるんで」
「わ、わかった……」
男性らはそう言い、犯人に体重をかけ床に取り押さえる。そこでようやく、俺も立ち上がった。一瞬だけ立ちくらみのようによろめく。それから周囲を見て怪我人がいないかも確認する。
「誰かケガした方とかはいませんか!」
そう呼びかけるが、ざわめきだけで反応がない。しかしそこへ彼女が――先沢梓が駆け寄ってきた。
「ケガ、君のそれ」
彼女はそう言って俺の手を指す。
「え?」
と思って見ると、左手にわずかに切り傷があり、そこから血が流れ出ていた。血が出ていたこと、切られていたことにもそこでようやく気づく。アドレナリンが出ていたせいか、痛みはまったくなかった。
「それ止血しないと」
彼女はそう言ってタオルを取り出し、傷口に当てきつく縛る。タオルが触れたことでようやく痛みが体に戻ってくる。とはいえそれはかすった程度の軽症で、太い血管が切られているような傷ではなかった。
「すいません、ありがとうございます……あの、そちらはケガとかはなかったですか?」
「私は、全然。その、すごく驚いたっていうか怖かったですし、今も心臓はバクバクいってますけど、ケガとかは何も」
「そうですか、よかった……」
俺は、心からの安堵を浮かべていた。一気に力が抜ける。緊張が解ける。そうすると徐々にズキズキとした傷口の痛みも増してくる。
「あの、本当に、ありがとうございました。ていうのも違うのかもしれませんけど、でも本当に、あなたのおかげで誰もケガしなくて」
「いえ。こっちも誰も怪我人がいなくて本当によかったです」
「そうですか……あの、私のところからはあまりよく見えなかったんですけど、何があったんですか?」
「ああ、えーっと……その、男が刃物を取り出して、声を上げて立ち上がって」
「あ、はい。その奇声は聞こえました。それで人がワッとこっちに押し寄せてきて」
「そうだったんですね。まあそれでちょっと、なんとかして止めたっていう感じです」
「そうなんですか……その、すごいですね。ほんとに、一人でとっさにっていうのもそうですけど、そんなすぐに、素早く。犯人気絶してるみたいですけど、なにか格闘技の技とかそういうのですか?」
「いえ、その……スタンガンなんですけど、ほら、最近こういう車内とか密室での事件多かったじゃないですか。それでまあ、恥ずかしいんですけどそういう時のこと色々想定っていうか、想像してて。もし自分の近くであったらどうしようとか考えてて……それで一応、スタンガンとか持ってたんですけど、あの男がちょっと怪しい感じというか、なんかやらかしそうな雰囲気があって。ずっとカバンの中に手を入れてて。まあ暇ですし高校生の妄想みたいな感じですけど、もしその手を抜いて何か刃物とか握られてたらすぐに動くぞみたいな、そういうほんとに妄想みたいな感じですけど……」
「そうだったんですか……でも、本当にみんなそのおかげで助かりましたし……友達が、一緒にいたんですけど転んじゃって。逃げてく人に押されて、バランス崩して。それで震えて足に力も入らないみたいでうまく立てなくて……だから、もしあなたがいなかったらそのまま真っすぐ犯人が来て、私たちが刺されてたかもしれなかったので。だから本当に、ありがとうございます」
彼女はそう言ってお辞儀をした。友人の話。もしかするとそれが死の原因なのかもしれない、と俺は思った。転んだ友人をかばって。俺を突き飛ばして自ら轢かれた彼女ならばありえそうな話だった。
「そうだったんですか……それは、俺もほんとによかったです。けど、ほんとに、もちろん転んだ友達を助けようとか、守ろうっていうのも絶対に大事ですけど、でもやっぱり、自分の身の安全を一番に、動いてほしいと、思います」
「それは……多分無理です」
そうだろう、と俺は思う。それがゆえに、彼女は何度も死んだのだから。
「このあとってどうなるんでしょうね」
「多分警察が来るんでしょうけど、車内の状況とか駅員が教えてたりするんですかね。途中で緊急停車したから遅れるかもしれないですね」
「ああ。それ考えると本当に、あなたが――すいませんお名前聞いてなくて」
「ああ。いや、まあこんな状況で名乗ることもないと思いますけど、カノウです」
「カノウさんですか。一応ですけど、サキザワです。とにかくカノウさんがあんなに早く対応してなかったら、どうなってたかわからなかったですね」
「そうですね……あの、こんな時に失礼ですけど、会ったことは、ないですよね?」
俺はそう言ってお互いを指差す。
「私たちですか? ないはずですね……それ制服、どこのかわかんないですけど」
「ああ、いや、いいんです。俺のことも普通に、知りませんもんね」
「……はい」
「ですよね、当然です。いきなりすいません、気にしないでください」
そう話していると、外のほうが騒がしくなってくる。
「警察が来たんですかね」
「それか乗客が脱出できてるとか」
「ああ。さっきの犯人確保とか伝達できたらいいんですけど。警察来たら、どうすればいいかわかります?」
「あー、でも先沢さんは多分何もないと思いますよ? ここに残ってたらなんか色々聞かれるでしょうけど。面倒であれば先に行ってもらったほうがいいと思いますし」
「そうですか。でももう少し友達の様子見ておかないといけないので。カノウさんはその、やっぱり事情聴取みたいなことされるんですかね」
「それは絶対だと思いますね。犯人を直接捕まえたわけですし、めちゃくちゃ早く対応してたからこいつもしかしてなんか知ってたんじゃないかとかも疑われるかもしれませんし。そもそも使用法があれとはいえスタンガンと催涙スプレー持ってたようなやつなんで。さすがに逮捕されるとかはないと思いますけど」
「そうですか……その、大変だと思いますけど、がんばってください。カノウさんは間違いなく正しいことをしたんですし、あなたのおかげで何人もの人が助かったと思うんで。それはこの、ここにいるみんなが知ってることですし、ちゃんと証言します」
彼女はそう言い、俺の後方で犯人を床に押さえつけている男性たちの方を見る。
「もちろん俺たちもそうだから。安心して。絶対俺も事情聴取受けるし、そこではっきり証言するからさ。他の人も、近くにいた人もきっとちゃんと証言してくれるから大丈夫だよ。君は英雄なんだから」
と男性の一人が答える。
「ありがとうございます。じゃあ、先沢さんは友達のところ行ってあげてください。もし傷のこと、タオルのこととか聞かれた時に先沢さん近くにいたら何か話すかもしれませんけど、それ以外では特に言及するつもりはないんで」
「わかりました……あの、本当にありがとうございました。今更ですけど、カノウさんがいなかったら多分、私も友達も、死んでたと思うので……」
それはおそらく前回の、そして今回も同様の「運命」であるはずだった。
「かも、しれないですね……でも無事だったんですから。ほんとに誰も、ケガしなくてよかったです」
「カノウさんがケガしてるじゃないですか。縫うことになるかはわからないですけど、警察の前に病院ですよね多分。出血がどれくらいかわからないですけど唯一のケガ人ですし先に病院行ったほうがいいですよ」
「そうだよ君。浅くても失血死なんてこともありうるんだから。こっちのことは俺たちに任せて先に警察か駅員かに話して病院に連れてってもらいな。君のことは警察に話しておくから多分病院に話聞きに警察が行くことになると思うけど」
と犯人を――未だ気絶から目覚めず動かない――取り押さえている男性たちが言う。
「わかりました。じゃあその、ここのことはみなさんよろしくお願いします」
「うん。私も、友達の側についててあげないといけないから一緒には行けないけど、気をつけてね」
と先沢さんも言う。
「うん。そっちも、友達もそうだけど先沢さんも、こんなことがあるとトラウマとか、そういうの大変だと思うけど、カウンセラーとか色々話してみて、とにかく何もなかったように生活できるよう祈ってるよ。ではみなさん、ほんとにご協力ありがとうございました」
「こっちこそ。君は英雄だよ。胸を張って行ってくれ」
男性の一人が言う。英雄。そんな言葉で自分が呼ばれる日が来るとは思わなかった。何もない、極平凡な自分。けど、そんなことはどうでもいい。英雄になりたかったわけではない。ただ彼女を守りたかった。生きててほしかった。事件で傷つき死ぬ人を出したくなかった。そして自分にはそれができるかもしれなかった。できるかもしれないから、やった。それだけだった。
俺は一礼して、電車の出入り口に向かった。途中こちらに駆けてくる看護師に会い、声をかけられた。犯人確保の声を聞き、怪我人の対処のため向かっていたが人の流れや入り口の都合でなかなか来れなかったということだった。俺は怪我人は自分だけであることを告げた。看護師は怪我の具合を見て、先導し駅員や警察と話し、外の救急車まで案内してくれた。
救急車の狭い密室。耳に届くサイレンの音。移動する一方でまったく見えぬ外の様子。あの電車が、駅が、遠ざかっているはずだがその実感も持てない。救急車までの道中、人々の視線や騒がしさも、遠く離れどこか夢のように思えてくる。薄っすらと靄がかかった白い景色。もしかすると血を失ったことによるものなのかもしれなかった。
しかしともかく、俺は病院まで運ばれ、傷を縫われ、同時に輸血も受け、結果としてほぼ「何事も」なく、無事に戻ってくることができた。
すべてが終わった頃には日もすっかり暮れ夜になっていた。夜の病院は人や音、動きが少なく、どこか居心地の良い空間であった。けれども夜に病院にいるというのは誰かの不幸によるものが多い。一度だけ経験した祖母の死の際。休日の夜の、人のいない病院。自分にとって夜の病院は常に死と隣り合わせだった。
けれども今回は、誰も死んでいない。いや、そうして自分が考えている間もこの巨大な箱の中では誰かが亡くなっているかもしれなかった。しかしともかく、あの事件では、誰も死んでいない。外傷も負っていない。自分を除いては。