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「『因果律』が閉じてしまった」
「私」は言った。「私」には私などというものはない。個はなく、ある意味では意思も存在しない。しかし人間は対象をうまく判別できなければ混乱してしまう存在だ。そのため私は便宜的に個を名乗り人の姿をとって二人の前に姿を現した。
二人は困惑していた。何もない空間。けれども二人は互いの存在を視認し、自分の目に映るものを疑いながらも歩み寄った。
「彼右くん……」
「先沢さん……?」
「私のこと、知ってるの?」
「そりゃ、もちろんだけど……先沢さんこそ俺のこと、知ってるの……?」
「当たり前だよ。だって、何度も会って、何度も話して……」
「俺も、何度も会って、話して……え、というかここは」
彼右はあたりを見回す。ここは何もない空間だ。正確には空間ですらない。二人に合わせて天地は用意した。重力はある。けれどもそれは一種の錯覚に過ぎない。二人はその空間の中で「私」を見つける。見知らぬ第三者。得体の知れぬ「人間」。
「繰り返すが、因果律が閉じてしまった」
「私」は続けた。
「困惑はあるだろう。まずは説明する。ここは存在しない場所だ。正確には場所ですらない。空間も時間も存在しない。夢の中とでも思ってもらえばいい。そして『私』も正確には存在しない。今は便宜的に人の姿をとっているが人ではないし、そもそも物質でもない。意思もない。神ではないが、おそらくそちらにとってはそう認識した方が理解が容易であろうからそう考えても構わない」
「私」は続ける。
「まず二人は互いを知っているだろう。目の前にいるのは彼右馨と先沢梓で間違いはない。二人共互いを知っている。つまり『ループ』をして最初に出会った状態ではないということだ。それぞれの時間軸でいえば、お互い相手を助け事故で死んだ直後と言っていい」
「お互い……?」
「説明する。初めに話した通り因果律が閉じてしまった。もはや始まりはわからない。ともかく、双方どちらかが死に、片方が生き残った。便宜的に先沢の死と彼右の生存を出発点とする。この時点で、先沢は『ループ』により未来から戻ってきた存在であった。しかし彼右の時間軸は正常であるため、彼右に先沢と出会ったという過去はなくもちろん記憶もない状態だ。つまり彼右にとっては初対面であったが、先沢にとっては既知の相手である。先沢には世界とは別に個人の時間軸があり、その中で何度もループし彼右に会っていたからだ。これは逆の場合も同じだが、ともかくその状態で、先沢が彼右をかばい死んだ。本来の彼右の死という運命が切り替わった。この際、『ループ』の力、過去に戻る力が死んだ先沢から彼右に譲渡された。理由は不明だが、そもそも人間にそのような力が宿ること自体がありえないことだ。
ともかくその死により力は彼右に譲渡された。そしてしばらく経った後、彼右はその力によって過去に戻った。そして先沢を助けようとした。しかし因果律、運命は変えられない。死は変えられない。結果的に始まりと同じように、今度は彼右が死に代わりに先沢が生き残った。そしてその際も、また彼右から先沢に『ループ』の力が乗り移った。つまり二人は互いに助けどちらかが死ぬことでもう片方に『ループ』の力を渡し続けてきたということだ。あとはわかるだろう。その繰り返しだ。何度も、何度も二人は互いに戻り、互いに助け、そして互いに『ループ』の力を渡し続けてきた。結果として因果律は閉じてしまった。線は円を描き繋がり輪となってしまった。決して出ることのできない輪。先のない輪。永遠の循環たる輪。閉じた因果律。ここまで、二人は一万回にわたりそのループを繰り返してきた。ここまではいいな?」
「――いや、ちょっと待ってください……色々、色々あるんですけど……まずあなたは、なんなんですか?」
「何物でもない。存在などない。時間そのもの、因果律そのものと言ったほうがいいかもしれない。しかしそれではわからないだろうから先程言ったように神だと思えばいい。もちろん『私』は神ではないが、そちらにとってはそのほうが認識が容易であろう」
「……あの、じゃあ、先沢さんもその、俺と同じで、何度も何度も過去に戻って……俺のことを助けようとしてたって、そういうこと……?」
彼右はそう言い、先沢を見る。
「……そうだけど、彼右くんも、ってこと……?」
「ああ……俺は、会ったこともない君に助けられて、それでその謎を知りたいって、君と会って話がしたいってそう願って……そしたら過去に戻れて。でも先沢さんは俺のことなんか知らなくて、けど俺は先沢さんが死ぬ運命を変えようと思って、でもダメで、それを何度も繰り返して……それで最後に、車に轢かれそうな先沢さんを突き飛ばして、代わりに俺が轢かれて、死んで……それで気づいたら、ここにいて……」
「同じだ……私もまったく同じ……彼右くんをかばって、それで死んだはずだけど、そしたらここにいて……」
「わかっただろ。二人はそれを一万回繰り返してきた。どちらかが死に、残ったほうが過去に戻る。そしてまた片方が死に、残ったほうが過去に戻る。延々とその繰り返しだ。片方の『最初』がもう片方の『最後』であったのもそういう理由だ。互いの大いなる謎。何故相手は自分を知っていたのか。ウロボロスだ。互いの尾を飲む二匹の龍。閉じた輪。それがお前たちだ」
「――いや、でもそんなことって……」
「ありえない。ありえないが現にありえてしまった。結果として因果律は閉じたままだ。宇宙の膨張は止まってしまった。何度も膨張と収縮を繰り返している。このままでは永遠に宇宙は先には行けない。宇宙のすべてがこの因果律の輪の中に閉じ込められてしまった。わかるな?」
「……わかるは、わかるけど……でも……」
「このままこれが永遠に続くと、いずれ宇宙はその膨張と収縮の繰り返しによる摩擦で崩壊する。膨らんではしぼむ風船だ。握り潰しては広げる繰り返しのボールだ。それを繰り返せば、いずれ摩擦で割れるのはわかるだろう」
「……いや、でもじゃあどうすれば……だってそもそも、俺たちはそんなこと知らないし……」
「だから今ここで選べ。閉じた因果律を解くために。宇宙を膨張の未来に向かわせるために。力はどうすることもできない。『私』にもそれを奪うこと、消し去ることはできない。それはこの宇宙の理から外れたものだ。しかし方法はある。時間を再び一方向に進ませる方法はある」
「……どうすれば?」
「もう助けるな。もう戻るな。その力はお前たちの意思により作用する。戻ろうとしない限り、時間は正常に前に進む。それだけの話だ」
「……でも、それだと、どちらか片方は死んだまま、ってことですよね……?」
「そうだ。そうしろ。本来であればそれが正常な時間の状態だ。運命だ。もはや始まりが分からぬ以上どちらが死ぬ運命かなどは存在しない。鶏が先か卵が先かというロジックと同じだ。ともかく生きられるのはどちらか一方だ。死ぬのもどちらか一方だけだ。それを選べ。そう行動しろ」
「いや、ちょっと待ってくださいよ! そんな、そんなことできるわけないじゃないですか!」
「できるできないじゃない。お前たちがしなければならないことだ。お前たちしかできないことだ。このままでは宇宙が消滅する。そうなればお前たちの存在もない。お前の世界も、家族たちの存在もない。すべてが無に帰す。そうしたいのか?」
「……本当に、他に方法はないんですか……?」
「ある。要するに『ループ』を止めればいいだけだ。別に死ぬのは片方だけでなくとも構わない。両方死んでもループは止まる。ただ当然だが、両方生きることだけはできない。死ぬのは一人か、二人か。この二択だ。どちらが死ぬか、それともどちらも死ぬか。それを選べ」
「いや、そんな……」
彼右は困惑する。先沢は、考え込んでいる。
「――彼右くん、当然だけど、もしどちらかが死ななければいけないなら、私は自分が死ぬ方を選ぶ」
「……そんなの、認められるわけないだろ。俺が死ぬよ。それは絶対、譲れない」
「うん、そう言うのはわかってた。じゃあどっちも死ぬのは?」
「それは……それも正直、ありえない。だってそれでも、先沢さんは死んでしまうから」
「そうだよね……私も一緒。あの、『神様』か何かはわからないですけど、この力は必ず一月一一日にしか戻れないんでしょうか?」
「それはわからない。それは私の管轄の範囲内ではない。いわば宇宙外の力だ。ありえないものだが、少なくとも二人の意志によって作用している。死による譲渡もそうだろう」
「ということは意志によってある程度コントロールできるんでしょうか?」
「可能性はある。二人が試さないことにはわからない」
「そうですか……彼右くん。彼右くんも、何度か一日を更新してきた?」
「というと?」
「最初は一月一五日が亡くなる日だった。でも助けて、一六日に進んだ。そういうのを何度も繰り返して、少しずつだけど明日へ、明日へって進んでいった。そうしてある時点までは辿り着けたこともあるの。それは彼右くんも同じかな」
「ああ……そうだよ。何回も繰り返して、少しずつ一日を更新していって……でも春を越えて、夏まで向かうなんていうのは全然無理で、その前に俺は死んで」
「だよね……でも、この力をもっと自由にコントロールできれば、もっと先まで毎日一日ずつを更新できるかもしれない。毎回一月一一日に戻るんじゃなくて、その度その前日、その前に戻って。そうして毎回一日を更新していけば、少しずつだけど明日に、次へって、時間を進めていって未来に行くこともできるんじゃないかな」
「それは……確かにそれなら可能かもしれないけど、でも記憶はどうなんだろう」
「そうだね……『神様』。今ここでこの話をしている、そしてどちらか片方、もしくは両方の死を選べと話しているということは、ここでの会話、記憶はすべて現実世界に戻っても、夢から覚めても残っているということですよね?」
「そうだ。そうでなければ終わらせることはできない。閉じた因果律を開くことはできない。そのための苦肉の策だ」
「なら、記憶があるなら可能だと思う。多分毎回どちらかは死ぬ。けれども記憶があるから、すぐその前に、前日に戻ってやり直す。今度は助ける。それを繰り返して、毎日を更新していく。これなら、一応は両方生き延びながら、先へ進めるかもしれない」
「だがそれでは問題の解決にはなっていない」
「私」は言う。
「確かにそれであれば、因果律には多少の綻びが生じる。完全に閉じた輪ではなくなるかもしれない。しかし宇宙の膨張と収縮の繰り返しという問題は依然として残っている。もちろんその収縮幅は狭まるかもしれないが、そんなもの宇宙の長い歴史においては微々たる違いだ」
「……それはわかりますけど、私たちの寿命まで、少なくとも年老いるまでは持ちませんか? どちらか片方が、寿命で死ぬまでは」
「回数による。その前に崩壊が生じる可能性もある。聞くが、そもそも寿命とはなんだ? どのような死が寿命であってどのような死がそうでないのだ?」
「それは……正直、わかりません」
「ならば寿命であっても何度も繰り返さないという保証はどこにもない。結局その終着点を何度も繰り返し、因果律は閉じ、宇宙の膨張と収縮が繰り返され摩耗によって崩壊する未来は避けられないのではないか?」
「……いや、でも、そこは俺たちでちゃんと、なんとかします」
「なんとかとは?」
「……ちゃんと話して、決めます。終わりを。でも今は、あまりに若くて、まだ先があるはずで……少なくとも、これまでの死は、そんなものは受け入れられなくて……」
「受け入れられる死などあるのか? お前たち以外の人間はみな受け入れようのない死で消えていっているぞ」
「……それは、わかります。だから、完全に自分の欲、わがままでしかないけれど、それでもまだ、少なくともちゃんと生ききったと思えるところまでは、生きたいんです……!」
「……『神』のようなものと考えればいいと言ったが、『私』は神ではない。何もしないし、何もする権限もない。『私』にできることは、この事態をお前たちに伝えることだけだ。なるべく宇宙の崩壊を防ぐために」
『私』は続ける。
「すべてはお前たちの選択と行動だ。決めるのも行動するのも二人だ。『私』はそこに何も関われない。事実を教えるだけだ。知ってどうするかは、お前たちにしかできない。その先に崩壊があったとしても」
『私』は続ける。
「話は終わりだ。元の場所に戻そう。あとは二人で決めるといい。私は、ただ見ている。本来ならそれ以外にできることなどなかったのだが」
『私』はそう言い、二人を元の場所に、元の空間と時間に、始まりの時に戻した。