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気づけば私の時間で、自分の体感で一年近い時間が経っていた。何度となく繰り返す冬。一月、二月。それを乗り越え春も迎えるのだが、夏ははるか遠い先だった。私の時間は、永遠の冬の中に閉ざされていた。そして当然、彼の時間も。
戻り続けた。走り続けた。想いは変わらなかった。むしろ何度も戻り、彼に会い、彼と話し、時間を共有することでそれは強まった。彼を知っていく。もはや彼は大いなる謎でもなんでもない。始まりのその謎は依然として残っていたが、もう彼は写真でしか知らない存在ではない。彼の家族から話を聞いただけの存在ではない。私にとってとても大事な、生きた人間だった。
私のことを話した。彼のことも聞いた。お互いに相手のことを知った。もちろん戻ればすべては初めからであったが、私は確かに彼を知っていた。また初めからでも、彼を死なせないためなら寂しさもなかった。
彼と知り合うことは大変だった。私には彼と会う理由があまりにも少なすぎた。彼に直接働きかけなければ死を回避できない場面は多かった。彼と知り合いになり、連絡を取り、何らかの形で彼の行動を変えるしかなかった。けれども私が彼の生活圏に入るのはあまりにも不自然過ぎた。学校が違う。住んでる場所が違う。遠いから彼の学校に知り合いもいない。どうすることもできない。SNSで知り合う? そもそも彼がそういうものをやってるかも知らない。やってたところであまりに悠長だ。それならばまだ一目惚れなどといって告白して半ば強引に知り合ったほうがいい。一歩間違えればストーカーだったが、接点のない状態で彼の周りを動き回り死を回避するほうがストーカーと思われる危険は高い。そうなっては彼に近づくことも難しい。
あえて共に事故を近くで体験し、それを共通点に、ということも考えた。最悪彼が死ぬ、もっと悪いのは自分が死んでループができなくなるということであったが、試してみた。何度も繰り返して正解がわからなくなれば神頼みといった具合にこれまでにない選択を取るほかなくなる。それに事故で彼が死なず、それでもケガで入院などした場合はどうなるのだろう、という思いもあった。軽症なら命の心配もない。そして入院していれば死ぬような危険もないはずだ。とはいえ、どうせ何かしらの死がやってくるのだろうが。
事故直前、事故現場まで歩いている彼に私はわざとぶつかった。ぶつかっただけでは長く足止めは出来ない。コーヒーを持ち、それをわざとかけた。
「すみませんほんとにすみません!」
と私は謝り、慌てたふりをしてカバンからタオルを出した。なるべく時間をかけて。
「いや、こっちこそすみません。俺がスマホ見ながら歩いてたせいなんで」
と彼も申し訳無さそうに謝ってきた。それは事実だったし、それは彼の最初――正確には私にとっては二回目の死の要因の一つでもあった。とはいえ、制服にコーヒーをかけられても一つも怒らない。もちろんそれは相手の私が見知らぬ女子だったということもあるだろうが、そこに私は彼の優しさを、思いやりを感じた。
「いえ、私の方こそもっと注意しとくべきでしたし、ほんとすみません。これタオルとかウェットティッシュとかなんでも使ってください。クリーニング代も出しますので」
「いえ、そこまでしてもらわなくて大丈夫です。ほんと俺のほうが悪いんで。こっちこそコーヒー弁償させてください。そっちだって制服汚れちゃってますし」
などと話していると、その巨大な音はやってきた。
爆発音のような大きな音。事故が起きたのだ。わかっていても心臓が飛び出る。少し先で、外壁に車が突っ込んでいる。
「――AED!」
と彼が私を見て叫んだ。
「AED、持ってきてください!」
と私の目を見て、私がでてきたコンビニを指差すと彼は慌てて事故現場の方に走っていった。AED、あの電気ショックのようなもの。私もすぐにコンビニに駆け込み「AED貸してください!」と叫んでいた。そうして手にしたカバンのようなものを抱え、事故現場に、彼のもとに走った。
「AED持ってきた!」
「ありがと! いま救助されてるみたいだけど、これ使っていいかとかわかる?」
「正直……事故で体がどうなってるかとかわからないし……」
「だよね……すみません! AEDに詳しい方とかいますか!? 医者とか看護師の方とか!」
と彼は周りに声をかける。そのうち看護師という人が駆け寄ってきてAEDも受け取り運転手の救護にあたった。高校生の私たちにはできることなどなく、邪魔にならぬようそこから少し離れたところで見守るしかなかった。
彼は、祈るように両手を握り見守っていた。どうか無事でと祈るように。赤の他人だなどとは関係なく。その真剣な面持ち。横顔。
私は、合点がいった気がした。謎は一つも解けていない。謎は謎のままだ。けれども、彼が自分の身を犠牲にし私を助けた理由。私の無事を心から喜んでいた理由。この共感。思いやり。たとえ繰り返しだろうと、私と面識がなかろうと、変わらない。彼は何も変わらない。それが彼の本質だった。人のため。人の無事を祈る。愛。
私は彼のことを、本当の意味で始めて知った気がした。
「――助かるといいね」
と私は口にしていた。
「ほんとに……最近の車は安全性能高いみたいだし、あの車も見た感じ高級そうだからそういうのも大丈夫だとは思うけど、でも結構高齢っぽかったからね……」
「そうだね……でもAEDとか、持ってきたはいいけど何もできなかったね……」
「ほんとにね……授業とかで、そういうのも習ってたけどさ、でも応用っていうか、じゃあこういう外傷とかある事故の時には使っていいのかとか、年齢とか、なんかそういうのは全然わかんなくて……そういうのもちゃんと教えてたのかもしれないけど、もっとちゃんと聞いとけばよかったっていうかさ、後悔っていうか……」
「そうだね、ほんと……でもすごかったよ。すごいというか偉いというか、あんなとっさにすぐにAEDって。言われないと私も気づけなかっただろうし」
「あー、それはほんとよかったね。というかありがとうね。完全に任せちゃったけど。ちゃんと持ってきてもらえてほんと助かったよ。というかあれだけど、なんか普通に話してるね……思わずだけど」
「そうだね。こういう状況だし。さっき会って、しかもコーヒーかけた被害者と加害者なのに」
「そんな大袈裟なもんじゃないでしょ。というかさ、むしろこっちからしたらありがとうっていうか、俺この道通るはずだったんだよ。あのままさ、スマホいじりながら君にぶつからず歩いてたら、多分この事故に巻き込まれてたと思うし……いやほんと、それ考えると急に怖くなってきたわ」
彼はそう言い、どこか自分を安心させるかのように作り笑いを浮かべて見せる。
「それ考えると助かったよほんと。命の恩人で。むしろコーヒーかけてくれてありがとうね」
「そんな、それ言ったら私だってぶつかってなかったら自分が事故に巻き込まれてたかもしれないし。だからお互い様というか、でもこれでクリーニングの分チャラにしようとかは思ってないから」
私もそう言い、ほんの少しだけ微笑みかける。
「うん。でもほんとクリーニング代とかはいいからさ。事故の有無関係なく」
そうしていると救急車の音が近づいてくる。二人で並んで見守っていると、ドライバーがタンカに乗せられ運ばれていく。遠ざかる救急車。残された車、事故現場。やってくる警察。徐々に引いていく人の波。
「――ほんと無事だといいよね」
と彼が言った。
「そうだね……誰も事故に巻き込まれなかったのもすごい幸運だし、それ考えてもドライバーにだって死んでほしくないもんね」
「うん……あの、コーヒー飲む?」
「え?」
「俺のせいでこぼしちゃったし、その後もAEDでどこかに置いてきたみたいだし。こういうことあって喉乾いてるだろうからさ。俺も乾いてるし。俺が出すから」
「こっちが出すよ。クリーニング代のこともあるんだし」
「じゃあお互いがお互いのコーヒー代出すってことで」
「うん、いいよ。でもそれだと自分で払ってるのと変わらないね」
「そうだね……あの、なんかこういう流れで言うのもあれだけどさ、何かの縁っていうのもおかしいけど、俺彼右です。一応名前くらいはちゃんと名乗っとかないと失礼だと思って」
「いやいや、こっちこそ名乗りもせず。先沢です」
「はは、なんか変な感じ……先沢さんうちの学校じゃないもんね。その制服ちょっと見たことない気がするけど」
そんなことを話しながら私たちはコンビニに戻り、コーヒーを買い、共に飲みながら話をした。
それからそれは定番の「入り口」になった。何度も同じやり取りをした。私は何度でも彼にコーヒーをかけた。事故という共通の出来事はその後の関係を築いていくのに助けになった。ニュースを見てドライバーが無事だったことを知り共に安堵した。AEDについても共に勉強し直した。お互いに歩きスマホはしないことを誓いあった。そうして笑った。
会った。話した。会う理由などなくても、用がなくても。彼としても全然知らない遠くの他校の生徒との交流もあるというのは大きいようであった。学校だけではつまらない。狭すぎる。いつも同じ範囲の中で、同じ人ばかりとは。だからといってSNSなども不安があるし何か違う気がして出会う気にもなれない、と。その点同じ事故という共通点を持つ私は丁度よい距離であるようであった。
「子供っぽいけどなんか漫画みたいでいいなって」などとも話し笑っていた。その気持ちは私にも少しわかった。同じ学校にいるわけではない。近くに住んでいるわけでもない。あの時まで、相手が存在していることも知らなかった。それなのにあんなふうに偶然出会って、知って。そして少し遠くで生きている。少し遠くで自分と同じように高校二年生として、同じような勉強をし、同じような学校に通い、同じように日々を生きている。そういうのはなんだか不思議だけれど、でも世界が広がる気がするし世界は自分がいるここだけじゃないと思えるから助けになる、と彼は話した。こういうことだって学校の友達にはなんか恥ずかしくて言えない。先沢さんだからこそ話せる、と。
そして私たちは話した。チャットで、電話で。会って。そうして互いを知っていった。もちろんその間も毎日のように彼には死が降り掛かっていた。私は何度もそれに立ち向かい、破れ、勝ち、破れ、戻った。そうして一日を、彼との一日をより長く更新していった。
彼はもはや、私の生活にとってなくてはならない存在になっていた。いるのが当たり前の存在。いないことが考えられない存在。もう謎でもなんでもない。確かな肉体をもってそこにいる存在。とても大事な存在。もはや始まりなど関係なく、謎も関係なく、助けてもらったなどは関係なく、私が心の底から、守りたい、助けたい、死なないで欲しい、生きてて欲しい――心の底からそう願う、とてもとても大事な存在。
彼を死なせないために。私は何度でも「初めて」の彼に会いに行った。何度でも、何度でも……
私は、彼を好きになっていたから。
*
それでも確実に、疲労は蓄積していた。
諦めようなどとは思わない。けれどもそれとは別に、絶対的な運命、どうしようもない不能を前にすると、もう無理なのではないかという絶望にも襲われる。そのたび何度も自分を奮い立たせるが、着実に精神は摩耗していた。
不可能なのではないのか。運命なのではないのか。どうすれば、何をすれば彼を助けられるのか。
何度も繰り返すうちに、私の中に一つの仮説、一つの疑念が湧いていた。
もしかすると、彼を助けることはできないのではないだろうか。少なくとも、私が生きている限りは。
そう。すべての始まり。彼が死に、私が生き残った。すべての始まりから、生き残ったのは片方だけだった。そしてその後は、私が生きている限り彼は死に続ける。
もしかして、私が死なない限り彼は生きることはできないんじゃないだろうか?
彼の代わりに私が死ぬ。それだけが彼の生存のルートなのではないだろうか。それは仮説だ。あくまで疑念だ。なんの確証もない。けれども、どれだけ繰り返しても変わらない運命を前にすると、それだけが唯一の正しい答えだと思えてくる。これまで何度同じことをしても無駄だった。そうである以上、完全に違うことをする以外に道はないのではないか。
それはあまりにも危険な賭けだった。死んでしまえば、多分二度と過去に戻ることはできない。やり直すことはできない。それで彼が生き残ってくれればいいが、最悪なのは双方共倒れという事態。どちらも死ぬ。そうなっては、二度と彼を助けることはできない。
それはあってはならないことだった。そうなるよりは、この終わりのないループを延々と繰り返したほうがまだマシだった。けれども、本当にそれ以外にすべがないのだとしたら……
自分は、彼のために躊躇なく死ねるだろうか。
何度目かわからない一月一五日がまたやってきた。途中から数えるのもやめた。数えることに意味はないから。
何か違うことをしなければならないのかもしれない。同じことを何度も繰り返してきた。けれどもそれでは何も変わらなかった。変えるためには、別の何かを。
彼はあの事故を経験しなければいけないのかもしれない。最初からズレたことで何かが決定的に変わってしまったのかもしれない。けれども何もわからない。答えなどない。わからないというのは、大きな心理的負担だった。それを何度も繰り返し、蓄積し……もはや自分は不能の塊となっていた。何もできない。何もわからない。唯一はっきりしているのは、彼を死なせることだけはできないということ。
思考能力は徐々に落ちていく。自分が今どこにいるのか、何をしているのかもわからなくなってくる。それでも体は幾度も繰り返し通った道を通る。けれども脳は、精神は疲弊している。疲れた。ただ疲れた。緊張感は、徐々に失われていた。
そして気づいたら、一瞬だけ気を失っていた。電車の中。外とは違う暖かさと、規則的にリズムを刻む揺れ。見飽きた平坦な外の景色。精神の摩耗からくる睡魔。その失神に近い睡眠がどれだけの間だったかはわからない。けれども目を覚まし、自分が一瞬でも眠っていた事実に気づくと私は文字通り飛び起きた。
車内の案内モニターを見る。いつもの駅、降りなければいけないあの事故の最寄り駅を過ぎていた。わずか一駅であったが、乗り過ごしてしまった。
強烈なパニックに陥った。なんで、どうして。どうすれば。時計を見る。事故の時刻は迫っている。とにかく着いた駅で慌てて飛び降り、反対側のホームへと走った。電車はそう簡単には来ない。焦りに襲われる。ようやくやってきた電車に飛び乗る。急げ、急いで。もっと早く。じゃないと、彼は……
電車が目的の駅へ着いた。飛び降りた。走った。階段を駆け上がった。疾走し、改札を駆け抜けた。駅を出た。場所はわかる。時計を見る。時間がない。急げ、走れ。
私は走った。全速力で走った。走りながら彼の姿を探した。時間がない。もうすぐ、もう少しであの事故が起きてしまう。
彼を見つけた。同時にあの車も見つけた。私は飛び出した。走った。走った。全力で。自分の力のすべてを振り絞り。
そうして両腕で、思い切り彼の体を突き飛ばした。
一瞬意識を失っていた。何が起きたか分からなかった。けれども全身に経験したことのない痛みが走り、それはもう体など存在しないような麻痺だった。体はない。あるのは意識だけ。かろうじて、冬の寒空が見えるだけ。
状況がよくわからない。自分がどうなっているのか、よくわからない。何か音が聞こえる気もしたが、よくわからない。ただ思考が、意識が徐々に薄れていく。強烈な睡魔に似た感覚。抗うことなどできない、深く深く沈んでいく感覚。
その時、白い視界に見知った顔が浮かんだ。何度も見てきた顔。あまりにも見慣れた顔。
彼の、彼右くんの顔。
表情はよく見えない。けれどもそれが彼だということははっきりわかる。彼の顔を見た瞬間、私の全身にはただ安堵だけがあった。
「よかった……」
思いはそのまま、口をついて出ていた。それは本心だった。それ以外に、私の中にはもう言葉はなかった。ただ、ただ心から安堵していた。自然顔は緩んでいた。彼が無事でよかった。本当に、よかった……
彼が口を開くのが見えた。何か言ったが、もうその言葉は私の耳には届かない。けれどもその表情はまだ見える。恐れと、困惑と、気遣いが混じったような複雑な顔。そんな顔はしなくていいんだよ、私はただ自分がもらったものを返しただけだから。
だから、そんな顔しないで。私は大丈夫だから。君が無事なら、それでいいから……
「彼右くんが、無事で、よかった……」
私は最後の力を振り絞り、そう言って笑いかけた。何も心配しないで。何も、何一つ、全部大丈夫だから……
だから彼右くんは、生きて……
次第に何も見えなくなる。あらゆる感覚が消えていく。意思も、自分の存在も消えていく。それはまるで空気の中に解けて消えていく音のように……
何も、何もかもがなくなっていく……自分が消えていく……でも、私があの世に持っていく思いは一つだけだった。最期に、消えていく自分の中に、最後まで残り続ける思い。
ほんとによかった。ほんとに……彼が無事で、ほんとによかった……
――よかった……