第3話 Princesas da velocidade do som(音速の貴公子たち)
今日はなんだか……待合室の外が
騒がしい気がします
嵐の潮騒と、木々がお互いの幹を打ち付け合う音……
もしかすると、風が強いのでしょうか
いえ、違う
大歓声と
烈しくビートを刻む電動工具の音
燃料タンクから車両へと
命の水を送る……モーターの音
「お疲れ様あぁ!」
炎天下だと云うのに
宇宙服のような
全身スーツを着込んだ人が
目元のバイザーを上げて
右手を挙げてくれます
私も敬礼でお応えします
何事が起こるのでしょう
首を捻りながら……伸びをして
改札へと向かうと
そこには……
バスから降りた風でもない
未だ若く、壮健そうな
お客様が居られました
『申し訳ありません、お待たせして……』
頭を下げた私に
「大丈夫……俺も来たばかりですから」
火傷や裂傷の酷い手が
切符を手渡して来ました
1994年4月30日……検札、入鋏
『もう……逝かれてしまいますか?』
未練も何も感じさせずに
改札を通ろうとする背中に
わたしは
問いかけずにはいられませんでした
「未練なら……沢山あります」
ぽつり、ぽつりと
雷雨の始まりのような
哀しみが
彼の口から漏れてきました
結婚目前だった恋人のこと
生年を2年詐称してレースに出ていたこと
それによって生じた父との心の溝
ハンドルのコントロール不能で
310km/hでコンクリート壁に激突し
……そのまま此処に来た事
「全部……俺の所為……なんです」
お客様……唇を噛み締めすぎです
血が滲んでいます……
貴方は不測の事故すら
ご自身で背負い込もうと仰るのですか……
俯いたままのお客様の唇を
白いハンカチで押さえていた時
一瞬、待合室の外の音が消えました
物凄い形相で、お客様が貌を上げました
「あンの野郎ッ……!!
申し訳ないが……Moët & Candonをボトルで2本!」
『はっ……はいぃっ!』
あの……お客様?
そんなに烈しく
シャンパンを振られては……
制止を試みようとしましたが……
お客様のあまりにも無邪気な笑みに
わたしは為すすべも……ありませんでした
待合室の外が喧騒に包まれました
そこは先程と同じパドックと呼ばれる場所
変わった事と申し上げれば
油や燃料の匂いを内包する熱気
耐火服に身を包んだ男たちの怒号
そして……観客席から押し寄せる
“歓声”と云う名のビッグウェーブ
無数の車の高らかな騒音
その中を緩やかな美しい曲線を描きながら
ロスマンズ・ブルーに白線が映える
レーシング・カーが滑り込んできました
停止したレーシング・カーから
それと同じに彩られた
パイロットが軽やかに
待合室に駆け込んで来ます
其処にはいつの間にやら設えられた
表彰台がありました
蒼いスーツのパイロットが
表彰台に至極自然に昇ろうとした
その時でした
ポンッ……!
軽い、それでいて鋭い音が響き
スカーンッ!!
操縦者のヘルメットのバイザーを
コルク栓が直撃しました
先に到着されていたお客様の
Moët & Candonの……
その直後、改札口から待合室の中と
仰け反って表彰台に乗り損ねたお客様を
瓶から噴き出したシャンパンが濡らし
金色の甘い香りを放ちます
ロスマンズ・ブルーの若者は
憤慨したご様子で
ヘルメットを脱ぎ捨て
……わたしの手から
シャンパンを引っ手繰りました
シャンパンの砲弾が
改札口を挟んでキラキラと虹を描き
わたしはその虹の下で
ずぶ濡れにされました
未だ芳香の残る
待合室から床が
綺麗に掃除されます
モップを手にした
ロスマンズ・ブルーの貴公子は
レーシングスーツの胸ポケットから
切符を取り出しました
改札口の向こうで、
先に入鋏されたお客様が
モップ掛けの手を止めて
「何で来ちゃったんですか……此方に」
悲しげな目で
この瞬間を見ています
「コースアウトしたんだよ、心が
……限界だった」
1994年5月1日……検札、入鋏
ホームの下は
車が発する咆哮で
満たされています
紫碧のシムテック・S941、カーナンバー32
右側グリッドで停車
ロスマンズ・ブルーのウィリアムズ・FW16
カーナンバー2が左側グリッド
No.32より少し後ろの位置に停車しています
一際甲高い咆哮が
2台より発せられ
シグナルが赤からグリーンへ!
2台の狼が吼え
唸りながらスタートしました
『通過よし!進路よし!』
何時になく、わたしの指差確認点呼に
力が入ります
鈍色の輝きを放ちながら
無数の車が遥か遠くを先行しています
……2人のパイロットを
待っているかの如く
光の軌跡は
縺れ合い、離れ、
追い越し、追い越されながら
無限幅のコースを描いていきました
『どうぞ旅路が……御安全でありますよう……』
最早、どちらが先行しているのか
最後尾なのか判りません
先を争う狼たちの咆哮は遠く
音速を超え
……更に遠く
一団となって…………
静寂に包まれたスターティンググリッドに
私の声だけが響きます
『発車、命時』
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